イエスが死ぬ直前に神に対して叫んだのは弱気になったから?

『マタイによる書』の中に、イエス・キリストが弱気になっているように見受けられる記述があります。それは、イエス・キリストが杭にかけられ、息を引き取られる直前の記述です。

第九時ごろ、イエスは大声で呼ばわって、「エリ、エリ、ラマ サバクタニ」、つまり、「わたしの神、わたしの神、なぜわたしをお見捨てになりましたか」と言われた。
マタイ 27:46

これだけを読むと確かに、イエスは杭の上で弱気になってしまい神に訴えかけている、という捉え方もできるでしょう。

あるいは組織が一貫して教えてきた通り、イエスの忠実さが本物かどうか試すために最後の最後に神が保護を取り去られたのだ、という捉え方もあります。

 

聖書が直接的な説明をしていない以上、どのように考えるかは個人の自由だと思います。

「よほど大きな試練だったんだろう」と考えても良いでしょうし、組織が教えている通り「エホバはイエスの忠実さを試しておられたんだろう」と考えても良いでしょう。これは個人の自由です。

しかしながらこの記述は、当時のユダヤの人々の文化や習慣を知っていると全然ちがう捉え方もできます。この捉え方ですとイエスは別に弱気になったわけでもありませんし、神がイエスの苦しみを許されたわけでもありません。

ユダヤの人々の聖書引用の文化

福音書に精通しておられる方なら、イエス・キリストが頻繁にヘブライ語聖書を引用していたことをご存知でしょう。

サタンの誘惑に対抗するためにも申命記8:3を引用しましたし、神殿の商売人を叱った時にもイザヤ56:7を引用しました。もちろん、これらはほんの一例です。

 

さらに、当時のユダヤの人々の文化として「聖書中の特定の範囲を引用する際には、冒頭の書き出しを引用してしまう」というものがありました。

分かりやすい例がヘブライ語聖書の書名です。「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の元々のヘブライ語名称はそれぞれ「初めに」「名である」「呼び」「荒野で」「言葉」であり、これらは全て冒頭の書き出しがそのまま書名となっています。この点は、参照資料付き聖書の脚註を参照して下さい。

 

同じように、イエス・キリストが杭の上で叫んだ短い言葉も実は「聖書の引用」だった、と考えることができます。では、イエスは聖書のどこの部分を引用していたのでしょうか。

これも、新世界訳聖書の参照聖句を引けば答えが分かります。マタイ27:46の「なぜわたしをお見捨てになりましたか」の右上に小さく「ソ」と書かれており、参照聖句が詩編22:1であることが分かります。

では、詩編22:1の内容を確認してみましょう。

わたしの神、わたしの神、なぜあなたはわたしをお見捨てになったのですか。なぜわたしを救うことから、わたしが大声で叫ぶ言葉から遠く離れておられるのですか。
詩編 22:1

イエス・キリストの発言が、そっくりそのまま記述されていることが分かります。

ポイントは、イエスは詩編22:1だけを引用されたわけではなく、詩編22編の書き出しの引用をもって、詩編22編の全体を引用されているということです。

これはちょうど、創世記や出エジプト記の書き出しをもってその書名としていることと同じ理屈です。

 

では、詩編22編にはどのようなことが書かれているのでしょうか。勘の鋭い読者ならもうお気づきでしょう。メシアが経験する事柄に関する預言が書かれています。

詩編22編にはメシアが虫のように扱われること、あざ笑われること、衣服の上でくじが引かれることなどが記述されています。

イエスは詩編22編の全体を引用することによって預言通りのことが現に今起こっていること、つまり、自分こそが詩編で予告されていたメシアであることを宣言されていたのです。

 

以上のように、背景的な知識がないとイエスの発言を正しく理解することはできないでしょう。

実際、イエスの近くでその発言を聞いていた人々は「この人はエリヤを呼んでいるのだ」などとかなり的外れな勘違いをしています。これは本当に残念なことではないでしょうか。

知識が乏しいと、イエスの華々しい勝利宣言が「エリヤを呼んでいる」とか「弱気になった証拠」とか「神が保護を取り去られた」になってしまうのです。

 

エホバの証人の方々も早く「理解の光」が当てられるようになって、イエスの華々しい勝利宣言を正しく認識するようになって欲しいものです。

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