エホバの証人たちが知らない「エホバの最大のご意志」まとめ

聖書の神は私たちに対して、貧しい人たち、社会的に恵まれない人たち、苦しんでいる人たちを大切にすることを望んでいるようです。この点は古代イスラエルの時代から何も変わっていません。

残念ながら、パリサイ人たちはこの点で大失敗し、イエスから「蛇よ!まむしらの子孫よ!」と激しく糾弾されてしまいました。

パリサイ人たちは、貧しい人や障害を持つ人たちを「罪人」と呼んで見下し、神殿や会堂での務めや、手の洗い方、安息日に歩ける距離など「とても細かい部分」に執拗にこだわったからです。

このようなわけで当時、イエスはパリサイ人たちに次のように勧めました。

憐れみの施しとして、内側にあるものを与えなさい。そうすれば、見よ、あなた方に関しては他のすべてのものは清くなるのです。
ルカ 11:41

残念ながら、エホバの証人もパリサイ人と似ております。

一般の貧しい人たちや社会的弱者への寄付を励ますことなど一切なく、むしろ普通の人たちを「世の人」と呼んで見下し、集会や大会での務めや、誕生日や乾杯など「とても細かいどうでもよい部分」に執拗にこだわっているからです。

さてこの記事では、集会や大会、会衆内でのいかなる仕事よりも遥かに優先されるべき神への奉仕、つまり社会的に恵まれない人たちのために行動すること、について聖書の中で説明されている部分をリストアップしておきたいと思います。

イエスがパリサイ人たちに対して「これらこそ行う務めがありました」と言っていた部分です。

(エホバの証人たちが「これら」を知らないのは非常に残念なことですね)

創世記から啓示までに登場する聖句のごく一部ですが、リストアップしていきます。お時間が厳しい方は、一番最後の「まとめ」の部分だけでもお読み頂ければと思います。

神の最大のご意志リスト

あなたの兄弟が貧しくなり、あなたの傍にあって財政的に弱くなる場合、あなたはこれを支えなければならない
レビ 25:35

立場の低い者や父なし子のために裁きを行う者となれ。苦しんでいる者や資力の乏しい者に公正を行なえ。
立場の低い者や貧しい者を逃れさせ、邪悪な者たちの手から彼らを救い出せ。
詩篇 82:3,4

資力の乏しい者をあざ笑っている者はその造り主をそしったのである。
箴言 17:5

立場の低い者に恵みを示している人はエホバに貸しているのであり、その扱いに対して神はこれに報いてくださる。
箴言 19:17

あなたの口を開き、正しく裁き、苦しんでいる者や貧しい者の言い分を弁護せよ。
箴言 31:9

地の人よ、何が善いことかを神はあなたにお告げになった。・・ただ公正を行い、親切を愛し、慎みをもってあなたの神と共に歩むことではないか。
ミカ 6:8

誰も二人の主人に奴隷として仕えることはできません。・・あなた方は神と富とに奴隷として仕えることはできません。
マタイ 6:24

人が語るすべての無益なことば、それについて人は裁きの日に言い開きをすることになります。
マタイ 12:36

人の子は、自分の使いたちを伴って父の栄光のうちに到来することに定まっており、その時、各々にその振る舞いに応じて返報するのです。
マタイ 16:27

「師よ、永遠の命を得るために、わたしはどんな善いことを行わなければならないでしょうか。」「・・完全でありたいと思うなら、行って、自分の持ち物を売り、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、天に宝を持つようになるでしょう」
マタイ 19:16~21

彼らは、やもめたちの家を食い荒らし、見せかけのために長い祈りをするものたちです。こうしたものたちはより重い裁きを受けるでしょう。
マルコ 12:38~40

「この香油なら三百デナリ以上で売れたし、そうすれば貧しい人たちに施すこともできたのに!」「あなた方はいつでも望む時に彼らに善を行えます」
マルコ 14:5,7

あなた方の敵を愛しつづけ、善を行いつづけ、何か返してもらうことなど期待せずに利息なしで貸すことを続けてゆきなさい。そうすれば、あなた方の報いは大きく、あなた方は至高者の子となるのです。
ルカ 6:35,36

裁くのをやめなさい。そうすれば、あなた方が裁かれることは決してないでしょう。・・いつも放免しなさい。そうすれば、あなた方も放免されるでしょう。
ルカ 6:37

自分の持ち物を売って、憐れみの施しをしなさい。自分のために、すり切れることのない財布、決して尽きることのない宝を天に作りなさい。
ルカ 12:33

あなた方がごちそうを設けるときには、貧しい人、体の不自由な人、足なえの人、盲目の人などを招きなさい。・・彼らにはあなたに報いるものが何もないからです。あなたは義人の復活の際に報いを受けるのです。
ルカ 14:13,14

ザアカイは立ち上がって主に言った、「ご覧ください、主よ、わたしは持ち物の半分を貧しい人々に与えています」。イエスは彼に言われた、「この日に救いはこの家に来ました」
ルカ 19:8,9

わたしのおきてを持ってそれを守り行う人、その人はわたしを愛する人です。さらに、わたしを愛する人はわたしの父に愛されます。
ヨハネ 14:21

イエスは主であるということを公に宣言し、神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら、あなたは救われるのです。
ローマ 10:9

あなたはなぜ自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ自分の兄弟を見下げたりするのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つことになるのです。
ローマ 14:10

あなた方は、不義の者が神の王国を受け継がないことを知らないとでも言うのですか。・・淫行の者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、不自然な目的のために囲われた男、男どうしで寝る者、盗む者、貪欲な者、大酒飲み、ののしる者、ゆすり取る者はいずれも神の王国を受け継がないのです。
コリ一 6:9,10

律法全体は一つの言葉、すなわち、「あなた方は隣人を自分自身のように愛さねばならない」の中に全うされているからです。・・互いによって滅し尽くされてしまうことのないよう気をつけなさい。
ガラテア 5:14,15

肉の業は明らかです。それは、淫行、汚れ、淫らな行い、偶像礼拝、心霊術の行い、敵意、闘争、妬み、激発的な怒り、口論、分裂、分派、・・です。そのような事を習わしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません。
ガラテア 5:19~21

あなた方兄弟たちの霊と魂と体があらゆる点で健全に保たれ、わたしたちの主イエス・キリストの臨在の際にとがめのないものでありますように。
テサロニケ一 5:23

その際イエスは、神を知らない者と、わたしたちの主イエスについての良いたよりに従わない者に報復をするのです。
テサロニケ二 1:7,8

わたしたちの主イエス・キリストの顕現の時まで、汚点のない、またとがめられるところのない仕方でおきてを守り行いなさい。
テモテ一 6:14

そして、善を行い、立派な業に富み、惜しみなく施し、進んで分け合い、自分のため、将来に対する立派な土台を安全に蓄え、こうして真の命をしっかりととらえるようにと。
テモテ一 6:18,19

わたしたちの神また父から見て清く、汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち、孤児ややもめをその患難の時に世話すること、また自分を世から汚点のない状態に保つことです。
ヤコブ 1:27

憐れみを実践しない人は、憐れみを示されることなく自分の裁きを受けるのです。憐れみは裁きに打ち勝って歓喜します。
ヤコブ 2:13

思いやりを示し合い、兄弟の愛情を抱き、優しい同情心に富み、謙遜な思いを抱きなさい。危害に危害、罵りに罵りを返すことなく、かえって祝福を与えなさい。あなた方はそうした道に召されたからです。それはあなた方が祝福を受け継ぐためなのです。
ペテロ一 3:8,9

最終的に汚点も傷もない、安らかな者として見出されるように力を尽くして励みなさい。
ペテロ二 3:14

誰であろうと、生活を支えるこの世の資力があるのに、自分の兄弟が窮乏しているのを見ながら、その兄弟に向かって優しい同情心の扉を閉じるなら、その人にはどのようにして神の愛がとどまっているでしょうか。子供らよ、言葉や舌によらず、行いと真実とをもって愛そうではありませんか。
ヨハネ一 3:17,18

これが神のおきてです。すなわち、私たちがそのみ子イエス・キリストの名に信仰を持ち、彼が私たちにおきてを与えた通り、互いに愛し合うことです。
ヨハネ一 3:23

そのおきてを守り行うこと、これがすなわち神への愛だからです。
ヨハネ一 5:2,3

だいたい、以上のようになっております。

「・・え、集会は?」「奉仕は?」「バプテスマは?」「組織への寄付は?」と、疑問に思われるでしょうか。

確かにパウロは「集まり合うように」と述べ、イエスも「宣べ伝え、バプテスマを施しなさい」と言っています。

しかしながら「集まり合えば永遠の命を受け継ぐ」とか「奉仕時間を記録しなさい。そうすれば神の王国を受け継ぐ」と言った聖句は1つもありません。

むしろ「貧しい人に与えなさい。そうすれば永遠の命を受け継ぐ」とか「分け与えなさい。そうすれば裁きの時に有利になる」と言った聖句が非常に多く目立ちます。

つまりエホバの証人は、さほど大切ではない1を100へ、本当は大切な100を1(あるいはゼロ)へとねじ曲げています。

この点は上記のリストでも確認できると思います。

まとめ

  • 人として「清く、正しく、美しく」あること
  • 困っている人や社会的に恵まれない人たちの為に行動すること

これらこそ、聖書の神が本当に望んでいることのようです。

それにしても、(普通の人であれば)これらの励ましを否定する人などいないのではないでしょうか。

むしろ聖書に関係なく、上記のような「善い人間」になることは全ての人にとっての理想、人としての目標ではないでしょうか。

だからこそイエスは「わたしの荷は軽い」つまり「キリスト教は別に難しい事を求めているわけではない」と言っているわけです。

従順でない子供はムチ、誕生日を祝わない、乾杯をしない、集会は休んではいけない、奉仕時間を毎月報告すべき・・。

聖書の教えは素晴らしい一方で、エホバの証人の教えは  ですね。

という事で、存在しているようで実は信者たちの妄想でしかないJWのことは放っておいて、素晴らしい人間になる為に日々前進して参りましょう!w

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