コメントやご質問

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  1. ろっきー より:

    とても勉強になりました。ありがとうございます!

    聖書に関して以前から疑問に思っていたことがあったので質問よろしいでしょうか?

    マタイ27:46の記述でイエス・キリストが「私の神、私の神、なぜ私をお見捨てになりましたか?」と言っていますが、これはイエスの信仰が弱くなったということなのでしょうか?私はどうしてもそう思えないのですが。

    • 管理人 より:

      コメントありがとうございます。
      参考になったようでとても嬉しいです。

      ご質問の件ですが・・
      とても重要な質問だと思いましたので改めて記事にさせて頂こうと思います。
      カテゴリ「聖書に関するQ&A」にて近々掲載いたしますね。

      よろしくお願い致します。
      また何かありましたら遠慮なくおっしゃって下さいね。

  2. ひよこまめ煮 より:

    はじめまして。
    家から家の訪問を受け、聖書に関してはまっさらな状態で純粋な気持ちで学びバプテスマを受けた、いわゆる1世の立場の者です。現在は不活発です。
    当初から、会衆や成員が醸し出す独特の雰囲気や度重なる人間関係のトラブル等々、居心地のわるさを感じていました。
    でも聖書をこんなに真剣に学んでいる組織はない、とそこを支えとしてなんとか頑張ってきましたが、
    やはり組織独特の取り決め、聖書解釈にも疑問を感じ始め、ネットでさまざまな情報を得て、組織がおかしいと確信しました。
    ただ聖書は好きで…じゃあ正しい解釈、神に受け入れられる信仰とは?途方にくれています。
    もう宗教組織は懲り懲りです。
    こちらのブログからは、私が考えておりました 突然20世紀に神の組織が現れる不自然さを文章化してらっしゃるところに特に共感いたしました!
    ブログ記事を何度も読み返して主旨をもっと理解したいと思っております。
    長文失礼いたしました。感想を伝えさせていただきます。

    • 管理人 より:

      ひよこまめ煮様へ

      わざわざコメントありがとうございます。

      > 聖書をこんなに真剣に学んでいる組織はない、とそこを支えとしてなんとか頑張ってきました

      この部分には本当に共感です。確かに兄弟姉妹たちの真剣に聖書を学ぶ姿勢は尊敬に値すると思います。
      実際、私も幼少の頃よりこの文化のもとで育ったお陰で聖書に対する愛を育むことができました。感謝です。

      > じゃあ正しい解釈、神に受け入れられる信仰とは?途方にくれています

      ネットでは組織を批判するものは多く見受けられますが、「じゃあどうすればいいの?」というテーマに踏み込んだものは少ないように思えます。
      本文が少しでも洞察の助けになればと思います。「聖書に関するQ & A」も参考になると思います。

      > 私が考えておりました 突然20世紀に神の組織が現れる不自然さを文章化してらっしゃるところに特に共感いたしました!

      本当にそうですよね笑。聖書に精通しておられる方なら誰しも不自然さを感じると思います。

      > ブログ記事を何度も読み返して主旨をもっと理解したいと思っております。

      ありがとうございます。参考になればと思います。
      もし何か不明な点や分かりづらい点があればこちらでおっしゃって下さいね。

  3. ひよこまめ煮 より:

    管理人さま
    さっそくコメントの返信をくださり、ありがとうございました^^

    今回は質問をよろしいですか?

    バプテスマについて…
    イエス、イエスの死後の使徒の書にある人たちはバプテスマを受けましたね。
    現代でも必要なのか、エホバの組織で受けたバプテスマは神に是認されたものなのか。
    (ただ、2つの質問に、組織と歩調を合わせることを理解しているか、が含まれているのでこれは?(笑))
    管理人さまが聖書から読み取れたことがありましたら教えてください。

    • 管理人 より:

      ひよこまめ煮様へ

      ご質問の件ですが、「水のバプテスマは救いに必要か」これは確かに以前に私も考えたことがあった疑問です。

      しかしながら、この疑問もやはりギリシャ語聖書全体に精通しているとすれば、そこまで思い悩む必要はないでしょう。
      是非ともギリシャ語聖書(特にイエスやパウロの考え方)に精通して下さい。

      今回はわざわざご質問頂きましたので私なりの考えを手短に申し上げますね。参考になれば嬉しいです。^^

      バプテスマに関してはイエス・キリストもマタイ28:19で「バプテスマを施しなさい」と言っている以上、真剣に考慮せざるを得ません。
      ただ私がギリシャ語聖書全体を踏まえた上での印象でもありますが、形式としてのバプテスマをそこまで重要視する必要はないと思います。

      実際にペテロはノアが洪水の水を無事に切り抜けたことが「バプテスマ」に相当したと言っていますし(ペテロ一 3:20,21)、パウロも古代イスラエルが紅海を通ったことが「モーセへのバプテスマ」だったと言っています(コリント一 10:1,2)。つまり、水によるバプテスマはあくまでも表象なのであり天幕や神殿と同じように「それ自体は実体ではない」ということがポイントだと思います。

      書士やパリサイ人たちの失敗はそもそも、実体ではない表象に固執したことでした。実体ではない神殿と大祭司に固執し、実体ではない犠牲や割礼にも固執したのです。実体はキリストであり、実体はキリストを受け入れることだったからです。

      この論点から言えば、実体は表象に勝り、実体は表象を凌駕します。それゆえにパウロはローマ2:25,26で「たとえ割礼を受けていなくても、律法の要求を守るならその人の無割礼は割礼と見なされる」とハッキリ言っています。

      これはバプテスマにも当てはまるのではないでしょうか。キリストを受け入れ、キリストの教えを守るなら例えその人がバプテスマを受けていないとしてもバプテスマを受けていると見なされるのではないでしょうか。

      神にとっても割礼を受けたか受けていないかは「そこまで」重要なことではありませんでした。古代イスラエルの時代にも、神は「割礼を受けていない外国人」であっても信仰を働かせさえすれば命を救っています。神にとっては「目に見えないこと」のほうが重要だからでしょう。

      それでも「どうしても形式的な水のバプテスマを受けておかないと気が済まない」というのであれば別にエホバの証人のバプテスマでなくとも、プロテスタントのどこかの教会の洗礼を受けてもいいと思います。少なくとも、プロテスタント教会で洗礼を受ける際には「教会に対する忠誠」は求められないでしょうから。

      p.s.
      恐らくですが、エホバの証人の組織で受けたバプテスマは神の目からしてプラスでもマイナスでもないと思います。貧しい人たちへの善行とは違い、バプテスマを受けていればキリストの裁判で救われるとか、バプテスマを受けていれば放免されるという記述はないからです。

  4. シオネ より:

    このサイトを今日発見して、
    第1章~第4章の全文を読みました。
    聖書に関するQ&Aは未読なので、
    明日くらいに読む予定です。
    私は元研究生です。
    キリストの臨在は目に見える形である件などに衝撃を受けました。

    聖書に関するQ&Aの項目は、
    今後も増やしていかれるのですか。
    エホバの証人は三位一体を否定していますが、
    そういう点は正しいのですか?
    エホバの証人の、高等教育否定や、政治に関わってはいけない事や、
    脱会者と口を利いてはいけない事は、どうお考えですか?

    • 管理人 より:

      シオネ様へ

      コメントありがとうございます。
      ご質問頂きましたので答えていきますね。

      > 聖書に関するQ&Aの項目は、今後も増やしていかれるのですか。

      聖書の核心を突くような重要なテーマや面白いテーマであれば新しく記事を更新すると思います。
      しかし、そこまで緊急性がないものは読者の個人研究にお任せしようと思っています。

      > 三位一体を否定していますが、そういう点は正しいのですか?

      私は正しいと思います。
      キリスト教の本家本元はユダヤ教であり、ユダヤ教は一神教であることからも明らかです。

      > 高等教育否定はどうお考えですか?

      私はどちらでもいいと思います。
      ただ、世からの悪い影響にさらされやすいのは事実だと思います。飲み会やサークルなど。

      > 政治に関わってはいけない事はどうお考えですか?

      私は人間の政治家には微塵も期待していませんが、喜んで協力はしたいと思います。
      それ以上でもそれ以下でもありません。

      > 脱会者と口を利いてはいけない事はどうお考えですか?

      その脱会者が「エホバの証人の組織」を否定しているのか、それともイエス・キリストを否定しているのかによると思います。
      私はイエス・キリストを否定している人とはあまり関わりたくありません。
      さらに、イエス・キリストをあえて裏切るような人とは口を利きたくありません。

      Q&Aもお読みになる予定なのですね。参考になれば嬉しいです。
      不明な点や分かりづらい点があれば、遠慮なくおっしゃって下さいね。^^

  5. シオネ より:

    お返事ありがとうございます。

    エホバの証人の教義の中で、
    高等教育否定の教義が最も抵抗あるのですが、
    大学の飲み会やサークルで世の悪い影響を受けるという、
    貴重なご意見を聞けて良かったです。

    一つ質問を忘れていました。
    現代のエホバの証人の世界的な伝道は聖書の預言の成就であり、
    神がJWの組織を選んでいる証拠だと言いますが、
    それについて反論可能ですか?

    1914年から、
    神の王国&イエスの臨在&終わりの日がスタートしたというのも、
    違うのですね?

    • 管理人 より:

      シオネ様へ

      > 大学の飲み会やサークルで世の悪い影響を受けるという、貴重なご意見を聞けて良かったです。

      良かったです。一般の人たちが考える以上に大学の飲み会などは荒れているケースもありますので(乱行騒ぎからの望まない妊娠など)その点はエホバの証人たちはだいぶ守られていると思います。

      > 現代のエホバの証人の世界的な伝道は聖書の預言の成就であり、神がJWの組織を選んでいる証拠だと言いますが反論可能ですか?

      聖書が広まっているのは確かに預言の成就でしょう。実際、世界三大宗教の堂々一位はキリスト教で信者数は20億程度とされています。

      では質問させて頂きますが、イエス・キリストを信奉している(と公言している)人の概算が20億というのは全て150年程度のエホバの証人の伝道活動の功績なのでしょうか?

      お気付きの通り違います。単純化してしまえば、数世紀にもわたる長い歴史を通じて聖書の、そしてキリストの普及に多大なる貢献をしてきたのはカトリック教会です。そしてプロテスタント教会です。

      数世紀もまたにかけてキリストの普及に貢献してきたカトリック教会やプロテスタント教会と比べてしまえば、たかだか最近出来たばかりのエホバの証人の貢献など微々たるものでしょう。

      世界的な伝道が神の組織の資格なのであれば、カトリック教会やプロテスタント教会の方が「比べ物にならないほどはるかに」エホバの証人よりも神の組織であると思います。

      シオネ様に聖書を伝えたのが「たまたまエホバの証人だった」だけのことであり、そのことを不必要に過大評価しないことがポイントだと思います。

      > 1914年から、神の王国&イエスの臨在&終わりの日がスタートしたというのも、違うのですね?

      イエスの臨在に関しては私は違うと思いますが、ご自身で心から納得したいのであれば是非ともマタイ書だけでも暗記するようにお勧め致します。

  6. シオネ より:

    たびたび済みません
    イエスは目に見える形で来るのが真実ということですが
    イエスは目に見えない形で来ると信じているエホバの証人は
    イエスが目に見える形で来られたのを見て
    これは本物のイエスではないと判断するのでは…

    そしてその教義の間違いは聖書を熱心に研究した結果の間違いですか
    それとも意図的な間違いですか
    文章のどこかに偽預言者と書いていたので気になりました

    なるべくコメントを少なくしようと思うのですが
    その点が気になり質問させていただきました

    世界中のクリスチャンを騙すために
    偽のイエスの姿を上空に映し出す
    ブルービーム計画という壮大な計画があるそうですが
    その場合に見分けることが出来ますか

    • 管理人 より:

      シオネ様へ

      > これは本物のイエスではないと判断するのでは?

      そのように判断したとしても、将来天から降りてくるその人物が「私がイエス・キリストです」と名乗り裁判を始めてしまえば、その超自然的な現象を目撃するすべての人は、それが「イエス・キリスト」だと認識せざるをえない思います。

      > そしてその教義の間違いは聖書を熱心に研究した結果の間違いですか?それとも意図的な間違いですか?

      エホバの証人たちに悪気はないと思います。

      > ブルービーム計画という壮大な計画があるそうですが、その場合に見分けることが出来ますか?

      偽のキリストの臨在の後には「裁判」がありません。本当のキリストの臨在の後には「裁判」があります。

  7. 荼毘で より:

    すごいですね。私も何かと違和感を感じている事は有りました。この内容がある程度理解できるのは、組織のお陰でもあるので、感謝はしていますが…。ただ、自分の時間、能力、財産を、貧しい人の為に使う事は、とても難しいです。例えば生活保護の不正受給とか、児童手当がバカ親のパチンコ代に消えていたり…。施しのつもりが悪の資金源になっていたりするので…。その点を考えると、奉仕に行って良い反応の人や、集会に来た新しい人に良いことをしたり、聖書について学ぶお手伝いをする、というのが、貧しい人の部類に入る私ができる事かな〜、とも思います。でも、あの選民意識みたいな、勘違いしてる様なところを見ると、管理者様の様にレベルは高くありませんが、私もフェードアウトしたい時があります…。

    • 管理人 より:

      荼毘で様へ

      コメントありがとうございます。ご評価いただき嬉しいです。
      私の考えではありますが返信させて頂きますね。参考になればと思います。^^

      > ただ、自分の時間、能力、財産を、貧しい人の為に使う事は、とても難しいです。

      おっしゃる通りだと思います。そもそもキリスト教という宗教は「実践が求められる宗教」ですので簡単ではないでしょうね・・。

      > 親のパチンコ代に消えていたり…。施しのつもりが悪の資金源になっていたりするので…。

      明らかにパチンコ代やタバコ代に消えると分かっている場合は別ですよね笑。そのような場合はお金とは別の種類の善行(必要な生活用品を寄付してあげる、ご飯をご馳走してあげるなど)ができるかと思います。

      身あるいは心が困窮している人に対する心身のお世話は聖書的に言って非常に高い評価を受けるはずです(ヤコブ1:27)。自分の施しや善行が悪用されないことが分かっているのであれば、誰に対しても積極的に施しや善行を行うことは良い姿勢だと思います。

      > 奉仕に行って良い反応の人や、集会に来た新しい人に良いことをしたり、聖書について学ぶお手伝いをする、というのが、貧しい人の部類に入る私ができる事かな〜、とも思います。

      もちろん、偽りを教えない限り奉仕や教える業は行うべき素晴らしい業だと思います。聖書でも打ち込むように勧められている主要な業です。ただ、「貧しい人たちへの善行」と「奉仕や教える業」を混同することは避けるべきだと思います。

      明らかにそれら2つは違います。イエス・キリストの宣教活動でも「貧しい人たちへの善行」と「教える業」、この2つはしっかり分けられているはずです。ぜひ確認してみて下さい。

      ちなみに、これら2つの業は飛行機の両翼に例えられると思います。2つの翼があって初めて飛行機は飛び立てるように、クリスチャンも「貧しい人たちへの善行」と「奉仕や教える業」の2つがあって初めてキリストの裁判で有利な判決をもらえるようになると思います。

      エホバの証人は「教える業」の方ばかりに力を注いでいると思いますが、1つの翼だけでは「飛び立つことはできない」でしょうね・・。

      > 管理者様の様にレベルは高くありませんが、私もフェードアウトしたい時があります…

      私の場合はタイミング的にフェードアウトせざるをえなかった感じですからね・・。当時は周りにも期待されていましたし、組織にとどまり続けたら明らかに「偽りを教える立場になってしまう」ことが目に見えておりました。

      偽りを教えることによってキリストの裁判で不利になることだけは避けたかった、これがフェードアウトの主な理由でした。

      講演や指導をする兄弟の立場で組織にとどまり続けることはきわどいでしょうが、姉妹の立場であれば組織を「うまく活用する」ことも可能かもしれませんね。

      組織をうまく活用するにせよフェードアウトするにせよ、荼毘でさんの救いにとって一番と思える方を選択できればいいですね。^^

  8. ひよこまめ煮 より:

    管理人さま
    今日は聖書の内容ではなく、エホバの証人との関係について質問してもよろしいでしょうか?

    管理人さまは、兄弟姉妹と円満(笑)な形でフェードアウトされたようですが、今でも交流が続いている方はいらっしゃいますか?

    不活発ですと、無視はされないにしてもある程度距離をおかれることもありますね。
    組織の取り決めに意味を見いだせない今となっては、こちら側はそうした判断に意味もないと思いますが。
    数人ばかり、できれば交流を続けたい人もいます。

    • 管理人 より:

      ひよこまめ煮様へ

      お久しぶりです。お元気でしたか?^^

      > 管理人さまは、兄弟姉妹と円満(笑)な形でフェードアウトされたようですが、今でも交流が続いている方はいらっしゃいますか?

      「交流」と呼べるまでのお付き合いは0人です。このようになる経緯を少しご説明いたしますね。私のフェードアウトは他と比較すれば計画的だったと思いますので、参考になればと思います。

      まず私の場合、フェードアウトするために2回ほど会衆を変えました。うまい具合に諸事情も重なり、それを上手にフェードアウトに活用できたと言う側面もありましたのでラッキーだったと思います。

      いずれにせよ、数年かけて会衆を2回変えつつ段階的にフェードアウトしたため、仲の良かった兄弟姉妹たちとは徐々に疎遠になることができました。ご存知の通り、会衆や巡回区が変わると兄弟姉妹たちとの関係は疎遠になりがちだと思いますが、これを利用したわけです。

      もちろん一部の非常に仲の良かった兄弟たちはやはり私と交流を続けようとしました。しかし、彼らとの交流を回避するために私は電話番号も変えています笑。

      しかも彼らが納得しそうな「フェードアウトの理由(病気になったなど)」もしっかりと用意し、その理由を広めつつフェードアウトしました。

      少しばかり寂しい思いをしましたが、私が選んだ新しい人生(キリスト裁判で有利な判決をもらうために善行や施しに励む人生)に集中したかったので、彼らとの交流を続ける必要性はさほど感じませんでしたね。

      > 数人ばかり、できれば交流を続けたい人もいます。

      お気持ちはよく分かります。実を言いますと、私にも数ヶ月に1回ほど一緒に食事をする兄弟が一人か二人ほどいます。しかし彼らには2つの共通点があります。

      1つ目の共通点は、私が不活発になっているという事情をよく分かっていないという点です。巡回区や地域区が違うので「私の噂」が彼らの耳にまで「そこまでは」届いていないようですね。何か聞かれたら適当に話を合わせています。

      2つ目の共通点は、私とのつながりを人一倍大切にしてくれているという点です。ですから食事の誘いの連絡は基本的には彼らから来ます。こちらの都合が合えば、気分転換もかねて最近のエホバの証人事情を聞いています笑。

      近隣の会衆で密に働いていた兄弟姉妹たちとの交流はさすがに難しいでしょうが、以上のようにちょうどいい距離感の兄弟姉妹がいれば、ひょっとしたらフェードアウト後も楽しくお付き合いできるかもしれませんね。^^

    • ひよこまめ煮 より:

      管理人さま
      詳しくお話いただき、ありがとうございました^^
      私も受け身のお付き合いになりました。
      今の状況(不活発)でもなお、会いたいと言ってくれる方々です。
      それだけ、一人の人として受け入れてもらえているのかな、って^^
      私も会うからには、白黒ハッキリさせずにぼやかしてもいいかな、と思っています。

      会衆が変わると関係が疎遠になる…ありますね(笑)
      私は一世なので、長くお付き合いできる友人がなかなかできなかったことが寂しかったです。
      余談でした。

      最近、口語訳聖書を入手して読み始めました。
      馴染みのある聖書ですと、自動的に組織で学んだことももれなくついてきますので(笑)

    • 管理人 より:

      ひよこまめ煮様へ

      > 私も会うからには、白黒ハッキリさせずにぼやかしてもいいかな、と思っています。

      白黒ハッキリさせてしまうと排斥になりかねませんからね笑。伝えたい気持ちもあり難しいところですよね・・

      > 最近、口語訳聖書を入手して読み始めました。

      とても良いことだと思います。私事として、個人的には新世界訳をメインでは使っていますが(やはり慣れているので)、新共同訳もサブ的に使います。2つの視点から聖書を見れば「より立体的」に学べると思いますよ。^^

  9. 荼毘で より:

    お返事ありがとうございました。この様な形で他の人と交流したのは恥ずかしながら初めての事で、嬉しい驚きを感じております。偽りを教えない限り、奉仕や教える業は行なうべき素晴らしい業である事。また、貧しい人への善行と教える業との混同をしない事。…心のモヤモヤがが晴れました。そして、管理人様がご自身の考えとして述べて下さった事に感謝します。聖書の原則も素晴らしいけど、bro.&sis.からはJW的な模範解答しか返って来ない事が予測される事も、モヤモヤの一つだったと思います。甘えかもしれませんが…。…それにしても、組織を越えて…ってステキですね。ありがとうございました。

    • 管理人 より:

      荼毘で様へ

      > この様な形で他の人と交流したのは恥ずかしながら初めての事で、嬉しい驚きを感じております。

      何かと便利な世の中ですよね。^^

      > 心のモヤモヤがが晴れました。

      それは何よりでございます。また何かありましたら遠慮なくおっしゃてくださいね。

      > 組織を越えて…ってステキですね。

      キリストは「真理はあなた方を自由にする」と言っていますが、こういうことだと思います。組織を越えて前進していきたいですよね。^^

  10. 荼毘で より:

    管理人様へ   ブログ記事を読み返して、…輸血をするしないというテーマでさえも、…本来のクリスチャンの業からすれば外縁のことのように思えます。…子供時代に2度の輸血歴(もちろん研究前)がある私は、自分は汚れているのだろうか?、これで生きている自分は何者なんだろうか?と、時折考える事がありました。輸血をしたらどうなるのか、私はどうなってしまったのか、と…。…感染症にならなかったのは良かったですね。とか、学ぶ前は仕方ないんですよ。などの答えしか得られなかったと思います。おかしいと思いながらも、いつか研究記事で取り上げられると思っていました。でも管理人様の見解を読み、慰められました。いつも愚痴っぽい内容も含んでしまってすみません。輸血についてご存知であれば教えてください。

    • 管理人 より:

      荼毘で様へ

      > 自分は汚れているのだろうか?、これで生きている自分は何者なんだろうか?と、時折考える事がありました

      「輸血は悪」という組織の教えにどっぷり浸っていると、そのような考え方になりがちですよね。色々な事情があると思うので、物事は一概に白黒つけられないはずだと思いますが・・。

      > 輸血についてご存知であれば教えてください。

      基本的にはブログ本文に書いてある通り「輸血するしない」の問題は外縁だと思います。ただ、荼毘で様のために何か役に立つ聖句を挙げるとすれば ペテロ第二3:14 と イザヤ1:18 が良いかもしれません。つまり、神とキリストが興味を持っているのは荼毘で様の「過去」ではなく、荼毘で様の「今から」だと思います。キリスト裁判の時に「最終的に」善い人間だと判断されることが大切です。共に頑張っていきましょうね。^^

  11. 荼毘で より:

    管理人様へ。…ご指摘の通り、組織の教えにどっぷりとつかっていました。組織の教えに対しては、イマイチ確信が持てていなくても、そのうち理解が与えられるだろうと、先延ばしにしてしまうのが癖になっていました。ブログ記事のダビデの記述や役立つ聖句を黙想すると、輸血をして生きている自分も、神の憐れみの対象者の様に思えて涙?でした。折角助かった命を、良いことに用いて来たかというとそうではないので、管理人様もおっしゃる通り“最終的に“良い人間だと判断していただける様に頑張りたいと思います。

    • 管理人 より:

      荼毘で様へ

      > そのうち理解が与えられるだろうと、先延ばしにしてしまうのが癖になっていました。

      あるあるですよね笑。エホバの証人の9割はそんな感じだと思います。「思考力を守れ」と書いてあるんですけどね・・。

      > 輸血をして生きている自分も、神の憐れみの対象者の様に思えて涙でした。

      今まで地球上に存在してきた全ての人間が「神の憐れみの対象者」だと思います。

      > 管理人様もおっしゃる通り“最終的に“良い人間だと判断していただける様に頑張りたいと思います。

      本当にその通りですよね。まだまだ競争は始まったばかりです。共に頑張っていきましょうね。^^

  12. ヒナタ より:

    初めまして、エホバの証人の事を調べようとしたら
    ここのサイトに行き当たりましたのでお邪魔させて頂きました
    宜しくお願いします。

    私は10年以上前に熱心な姉妹によって研究生をしていました
    その後、体調が悪くなりまして研究を断念しましたが
    今も違う姉妹が熱心に訪問下さっている状態で研究がすぐにでも始められる状態です
    体調が優れないので始めても続けられないかもしれないので研究は再開していません
    迷っている状態です。

    私は信者じゃなければ、研究もしていませんが輸血は嫌いです
    私の周りには輸血をした後で病気になり苦しみ亡くなっている方が沢山います
    現在も病気で苦しんでいる方も沢山いますので輸血の件に関しましては聖書と一緒の考えを持っております。

    後、聖書の教えてと人間の教えが混ざっているとおっしゃられておりましたが
    未来の事についてもそうなのでしょうか?
    地震がおきたり、貧困者が沢山でたり、色々な事が起きてから終わりの日は来るとありますよね?それは実際に現実的に起きていますよね?
    その中にも人間の言葉があるとすれば、人間でも未来が分かるという事なのでしょうか?

    すいません。少し研究をしただけなので全く理解していませんが
    疑問なのでお聞きしました
    宜しくお願いします。

    • 管理人 より:

      ヒナタ様へ

      コメントありがとうございます。
      お返事いたしますので参考になればと思います。

      > 体調が優れないので始めても続けられないかもしれないので研究は再開していません。迷っている状態です。

      無理は良くありませんが、聖書に触れる機会を確保するという意味では週1程度の研究に応じるのは良いかもしれませんね。
      「エホバの証人は神から選ばれている」という教えに注意してさえいれば、ある程度は聖書の知識を取り入れることもできると思います。

      > 聖書の教えてと人間の教えが混ざっているとおっしゃられておりましたが、未来の事についてもそうなのでしょうか?

      はいそうです。詳しくはブログをご覧頂ければと思います。

      > 地震がおきたり、貧困者が沢山でたり、色々な事が起きてから終わりの日は来るとありますよね?それは実際に現実的に起きていますよね?

      この質問に関しては https://bibleking.org/matthew-24/ が参考になると思います。

      > 少し研究をしただけなので全く理解していませんが疑問なのでお聞きしました宜しくお願いします。

      聖書に関して疑問をお持ちになることはとても素晴らしいことだと思います。ぜひその調子で聖書の研究に励んで頂ければと思います。

      ただ、聖書に関しての疑問はひとえに「聖書全体を把握していない」、あるいは「原始ユダヤ教や初期キリスト教の歴史を把握していない」ことに起因すると思います。

      逆に言えば、聖書全体、原始ユダヤ教、初期キリスト教について重点的に研究すればほとんどの疑問には答えることができると思います。ともに個人研究を頑張りましょうね。^^

  13. 荼毘で より:

    お久しぶりです。只今不活発な状態です。質問ですが、①聖書中の「あなたの兄弟」とは、誰の事でしょうか?…JWと研究する前は、「人類皆兄弟」の意味で全ての人を指すのかな?と思っていたのですが、JW解釈では、「JWの兄弟姉妹」の事の様でした。同じ様に、「キリストの兄弟」の「小さな者」も、「全人類」の「目立たない」「貧しい」人達の事かな?と思っていたのですが、JW解釈では「統治体」の事の様でした。②「忠実で思慮深い奴隷はいったい誰でしょうか」や「天への召し」について読んだ時は、頑張ろうと希望がわいたものですが、JW解釈では「統治体」だったので、ガクッときましたし、自分の勘違いが恥ずかしくなりました。解釈によっては善行の対象も変わるので、管理人様のお考えを教えて下さい。分かりにくい文面ですみません。文字打ちに慣れていないので…。

    • 管理人 より:

      荼毘で様へ

      お久しぶりです。いかがお過ごしでしたか?^^

      > 聖書中の「あなたの兄弟」とは、誰の事でしょうか?

      聖書中ではイエスやその弟子たち、パウロなどが「兄弟」という表現を多用していると思います。

      この表現を考える上での大前提としてイエスや弟子たちはユダヤ人であり、そもそも自分たちの同胞を「兄弟」と呼び合う慣習はもともとユダヤ人たちの慣習でした。

      ユダヤ人たちの間でもこの「兄弟」という表現には2つの意味があり、狭義には「(アブラハムを共通の祖とする)イスラエル人の仲間たち」という意味があり、広義では「(アダムを共通の祖とする)人類の仲間たち」という意味です。

      しかしながら、ユダヤ人たちが「兄弟」と表現する時は基本的には狭義の意味で使われていたようですね。やはり、よそ者を排除しつつ仲間意識を高めたいという欲求は人の根本的欲求のようです。

      さて、ユダヤ教に起源を持つ初期クリスチャンたちの間でも当然ながらこの表現が踏襲されました。どちらかと言うと「キリストに信仰を持つ仲間の兄弟」という狭義的な意味が強かったはずです。

      この意味では、エホバの証人の間であってもキリストに信仰を持つ人たちを互いに「兄弟姉妹」と呼び合うのは正しいのかなと思います。

      ただし、エホバの証人に限らず(プロテスタント教会など)イエスに信仰を置いている人はたくさんいらっしゃるので、その人たちに対しても「兄弟姉妹」と呼ぶと尚良いでしょうね。

      善行を向ける対象についてですが、私たちが対象を選ぶという贅沢などは許されていないでしょうね・・。

      キリストに信仰を置く仲間たちは当然のことながら、自分の命を狙うような敵たちに対しても最大限の善行は示されるべきだからです。マタイ5:43~48 を参考にして下さい。

      > 「忠実で思慮深い奴隷はいったい誰でしょうか」や「天への召し」について読んだ時は・・

      この辺りはブログ本文と https://bibleking.org/matthew-24/ が参考になると思います。

      > 分かりにくい文面ですみません。文字打ちに慣れていないので…。

      いえいえ、お気になさらないで下さい。
      他にも自分だけではどうしても分からない疑問点などあれば遠慮なくコメントして下さいね。^^

  14. 荼毘で より:

    管理人様へ   善行の対象について…全くおっしゃる通りですね。目の前に困っている人がいたらきっと、「この人は対象者かどうか」なんて考えないですよね。頭でっかちにならない様にしたいと思いました。ところで、最近気になっているのが、「背教者の見分け方」なのですが、中でも「背教者は…組織を退けます」というものです。私は組織なしでやっていけたらと思っているのですが、組織なしのクリスチャンが気をつける背教とはどんなものがありますか?…(少し頭が混乱しています)それと、古代イスラエルの記述を現代に当てはめたり、教訓にする事は「有益」でしょうか?例えば、安息日に木切れを集めていた人が石打ちになったとか、滅ぼされたとか、マイコンに利用されたら…(益々混乱してきました。ゴメンナサイ)

    • 管理人 より:

      荼毘で様へ

      早速のコメントありがとうございます。
      お返事を差し上げますね。^^

      > 気をつける背教とはどんなものがありますか?

      そもそもですが、聖書に書かれている「背教者」とは反キリスト、つまり「キリストを否定する人」たちのことです。
      ですから、以下のような人々は聖書に反する考え方を持っており、それゆえに「背教者」だと言えます。

      ・イエスが神の子であることを否定する
      ・イエスが人類の救世主であることを否定する
      ・イエスは単なる人間に過ぎなかったと考える

      以上のように考えると、エホバの証人の「背教者は…組織を退けます」という教えは明らかに異教です。
      1世紀においても「背教者」という言葉は「初期クリスチャンの共同体を退けた人」という意味ではなく、「キリストを退けた人」という意味でした。
      お気付きの通り、エホバの証人の「背教者は…組織を退けます」という教えは明らかに聖書を書き換える行為であり、聖書の教えを踏み越えています。

      > 古代イスラエルの記述を現代に当てはめたり、教訓にする事は「有益」でしょうか?

      モーセの律法を含め、古代イスラエルの記述は「非常に参考になります」。
      特に神と人間とのやりとりでは神の考え方や思考が記録されていますので非常に有益です。

      ただ、パウロも言っていますが(安息日などを含む)モーセの律法はあくまでも「影」に過ぎず、実体は「キリスト」です。
      壁に映し出されたシルエット(律法)を研究するよりも、光が照射されている実体(キリスト)の方を研究する方が聖書の本質をより的確に理解できると思います。
      ですから、まずはキリストの言動を収めた4福音書に精通して下さい。モーセの律法など、ヘブライ語聖書はその後で研究した方が聖書を的確に理解できると思います。

  15. 荼毘で より:

    背教について分かりやすく教えて下さりありがとうございます。ブログ3章の「エホバの証人の弱点」を参考にし、組織が根拠としている聖句だけでなく、前後の脈略や場面全体を思い浮かべながら、自分でも調査してみました。結果、組織を退ける人は背教者ではありませんでした。「神の過分のご親切をみだらな行いの口実に変え…イエス・キリストに不実な者」や、コラの様に自分の栄光を求めて(洞察)いたのが背教者で、組織の教理を退けて離れて行く人は決して背教者ではない事がハッキリと分かりました。震えました。ブログ3章にもある様に、私も聖書を研究している様でしていなかった事を痛感しました。ご提案の様に早速マタイから読み始めています。

  16. 雅子 より:

    努力の天才が、また私達を助けてくれました。

  17. 幸楽 より:

    はじめまして。JWの聖書解釈に関して、ひとつ教えてほしいことがあります。この記事とは直接の関係はないので恐縮ですが、どうぞよろしくお願い致します。
    ネットで読めるエホバの証人の教理では、エホバが霊的な体を持っているといわれていますよね。
    「神​は​体​を​持っ​て​おら​れ​ます。わたしたち​の​よう​な​物質​の​体​で​は​なく,霊的​な​体​です。『物質​の​体​が​ある​なら,霊的​な​体​も​あり​ます』と​聖書​は​述べ​て​い​ます。(コリント​第​一 15:44)」(~「神とはだれですか」ものみの塔〔2002〕)
    しかし、ここで挙げられている聖書箇所は信者の復活について言われている箇所であり、この場合の「霊の体」は人間の体であって神の体ではありません。聖書には、直接的に神の体についての記事が皆無だと思います。だから、「神は体を持っておられます。」というエホバの証人の説は、聖書的根拠を欠くと思うのですが、いかがでしょうか?、

    • 管理人 より:

      幸楽様へ

      コメントありがとうございます。
      幸楽様はきっと勉強熱心な方なのでしょうね。^^

      > 「神は体を持っておられます。」というエホバの証人の説は聖書的根拠を欠くと思うのですが、いかがでしょうか?

      なるほど。私の考えを申し上げますと、基本的には幸楽様のお考えが正しいと思います。
      狭義(厳密な意味)で考えれば、神は(人間のような)体など持っておりませんし、そのような意味では「神は体を持っていない」と思います。
      このことはエホバの証人たちもよく分かっていることだと思います。

      ただエホバの証人の出版物はよく、読者が理解しやすいように砕けた言葉を使ったりします。
      さらに、出版物が原文である英語から日本語に翻訳される時に翻訳者の力量で「ニュアンス」が微妙に変化したりします。
      これらのことを踏まえて「神は体を持っておられます」という文章は、「神は確かに存在しておられる」ということを強調したかったのかもしれませんね・・

      エホバの証人の出版物は「あくまでも参考」です。
      厳密な正しさはあまり期待できないと思いますので、幸楽様も適度に利用されるのがよろしいのではないでしょうか。^^

  18. 幸楽 より:

    管理人様
    御返答いただきありがとうございます。英文の出版物の翻訳にも問題があることを学ぶことができました。しかし新世界訳を誇るエホバの証人さんのことですから、米国本部からの出版物の翻訳作業にも有能な人材がいるはずですよね。
    実は、私もエホバが、モルモン教さんが言うような、人間の体のような物質的な体を持っているなどということはありえないと思っているし、エホバの証人では当然、そのような意味で「神は体を持っておられます」と言っておられるわけではないことは承知しているんです。あくまでも「霊的な体」という意味で言われているからです。それで私も、その考えには賛成なのです。ですから、管理人様が「基本的には幸楽様のお考えが正しいと思います。」と言われることは、ありがたい半面、がっかりした気持ちもあります。否定してもらって、コリント一15:44が、人間の体だけではなくエホバの体をも意味する旨を弁明して下さるか、あるいは、エホバが『霊的な体』を持っておられることを示す他の聖書箇所を挙げてほしかったです。
    エホバを人格神として信仰する以上、なんらかの意味で「体」を持っておられると認めねばなりません。「体」なき人格神など観念的で、実生活において「父よ」(アッバ)と呼びかけうる生きた相手にはなりません。だから、私はエホバの証人さんが、エホバが「物質的な体」は持たないけれど「霊的な体」は持っておられる、という主張を支持したいのです。
    ところが、問題はその聖書的根拠です。コリント一15:44は、たしかに「霊的な体」があることを示してはいますが、文脈的には復活する信者、すなわち人間について言われているので、その点がとても残念な気持ちになるわけです。エホバの証人さんの聖書研究は一般のキリスト教会のそれより進んでいるそうなので、ここでもエホバが「霊的な体」を持っていることを示す適切な聖書箇所を挙げることができるはずです。それを管理人様に求めることは酷かも知れません。ただ、エホバの証人さんの組織の中で、教理的なことを担当しておられる方々は、ぜひ、この点にも挑戦して頂きたいと思います。すなわち、コリント一15:44以外に、エホバが「霊的な体」を持っておられるという命題を根拠づけ得る聖書箇所を見つけ出すということです。
    もっとも、「正統」を自称する側が固執する「三位一体」も聖書的根拠を欠くのであって、信仰には直観的な面もあるので、必ずしも聖書的根拠がなければ教理として語ることはできないとは言えませんが、それでは神学の営みも成り立たないので、主張することは出来るだけ聖書に照らしてからにしてほしいと思います。その点で、「神​は​体​を​持っ​て​おら​れ​ます。わたしたち​の​よう​な​物質​の​体​で​は​なく,霊的​な​体​です。」ということは、少しは聖書的根拠を得ることができるのではないかな、と思うのですが、いかがでしょうか?

    • 管理人 より:

      幸楽様へ

      お返事ありがとうございます。

      幸楽様のお返事を読ませて頂きましたが、幸楽様は神学的な側面から論じておられるようですね。
      なので、私がいたします今回のお返事も「神学的な」側面からさせて頂こうと思います。
      なんらかの参考になれば嬉しいです。

      まず、「神」という単語を形容している「霊(ギリシャ語:プネウマ)」という単語に関してですが、
      ご存知のように「プネウマ」には「風、空気、息、呼吸、生命」といった意味があります。

      そして、「神は霊である(ヨハネ4:24)」というのが聖書の基本的な神に関する説明です。
      つまり、「神は目に見えないけど、風や空気と同じで、確かに存在している」ということがこの聖句の主旨だと思います。
      (プネウマには「思考」という意味もありますから、「神は神なりの思考を持っておられる」ということもこの聖句の主張でしょうね)。

      聖書中の記述はこの説明と合致しております。
      例えば、キリストが神のことを「天におられる父よ」と呼びかけておられるのは良い例でしょう。
      「天におられる」というキリストのこの発言も、「神は人間には見えない場所におられる」という考えを暗に反映しているものと思います。

      さらに言えば、キリストは人間の肉体をつけて降誕なさいましたし、
      アブラハムの元へ訪れた「み使い(天使、霊者)たち」も人間の体を身につけていたものと思われます(彼らは実際に飲み食いしております)。
      つまり、キリストやみ使いたちにとって可能であるならば、神にとっても(その気があればいつでも)人間の肉体を身につけて地上に降りてくるなど容易なことではないでしょうか。

      潜在的に人間の体を身につける能力を持っているということはつまり、本質的に言っても人間の体を身につけ得るということを意味しているものと思います。
      このような意味で言えば、神は確かに霊者であれらる「と同時に」、人間が持つような肉体もお持ちでもあられる、と言うことができるものと考えます。

      語弊を承知で例を挙げますと、いつも通勤に使っている車は「高級車」だけれども、車庫にはいつでも利用することができる「軽自動車」を持っている人と同じだと思います。
      この人は高級車に乗っている時であっても本質的には「軽自動車を保有している」と言えるでしょうね。神も同じではないでしょうか。

  19. 幸楽 より:

    管理人様
    御返答ありがとうございます。とてもわかりやすい説明でした。そもそも、エホバが「霊的な体」を持っておられるとの証人さんの教理および不適切と思われる聖句を付けた解説は、管理人様が証人さん聖書研究の問題点として指摘しておられる「端っこ全体現象」や「つまみ食い全体現象」などの産物なのかも知れませんね。そして新世界訳の使用にも問題があるのでしょう。ただ、「章と節に分割された本来の姿ではない聖書」という点では、一般のキリスト教会で使用されている翻訳聖書も同じですね。
    そして教理の根拠として挙げられる聖句が内容的に一致しないという点では、一般のキリスト教会の教理とか信条にも見られることだと思います。
    さて、話を戻しまして、エホバの体ということですが、わかりやすいたとえ話により潜勢態と現勢態の関係のようなイメージを受けました。被造物が肉体を持つなら創造主も肉体を持つことは可能だということはわかります。実際、新世界訳の創世記18章にあるとおり、アブラハムの前にエホバが人の姿で現れて食事もしておられます(ちなみにキリスト教会の中には、この箇所で出てくる三人を「三位一体」にこじつけ、旧約ではエホバが父と子と聖霊であると主張する人々もおりますが、22節以下でそのような解釈は無理であることがわかります)。御指摘のとおり、エホバが人の姿をとって天から地上に降りて来られるという観方は、異教的要素を含む可能性はあるとしても非聖書的だとは言えませんね。
    そして、人間がその復活において霊の体を与えられるのであるなら、その与える側のエホバ御自身も、そのような霊的な体を持っておられても不思議ではないということですね。そういうことは言えると思います。
    しかしやはり、根拠聖句のようなかたちで第一コリント15:44を記している点はどうかと思います。これが管理人様の言われる「端っこ全体現象」の一例でしょうかね(笑)。

    • 管理人 より:

      幸楽様へ

      お返事ありがとうございます。

      どうやら、幸楽様は色々とよくご存知のようですね。
      認識が比較的共通していることが分かってとても嬉しかったです。
      また、幸楽様が私の文章をよく理解して下さっておられることも光栄に思います。^^

      > これが管理人様の言われる「端っこ全体現象」の一例でしょうかね(笑)

      エホバの証人の方々には申し訳ないですが、本当にその通りだと思います。
      統治体(エホバの証人の教義を最終的に決定している人々)の兄弟たちは聖書の扱い方を間違えているのではと心配になりますね・・

      エホバの証人の協議は「あくまでも参考」としつつ、お互い聖書とキリストの実践に励んでまいりましょうね。^^

  20. ニルス より:

    はじめまして。twitterから飛んできました。ニルスと申します。わたくしのエホバの証人の経歴はわたくしのツイートを追っていただければと思いますが、アフターケア事務所に興味があります。ケアする側としてです。

    力になれることがあればと思い、ここに書き込み致しました。場違いであれば申し訳ございません。

    • 管理人 より:

      ブログのコメント有難うございます!

      ケア事務所の趣旨に共感してくださり、声を上げて下さってとても感謝です^^

      現在、Webサイトや環境など色々と準備検討をしておりまして、活動をスタートできるのは恐らく来月の前半頃だと思います。

      百聞は一見にしかずだと思いますので、体裁がある程度整いましたらお知らせいたしますね。

  21. けん より:

    はじめまして。何度も拝読させて頂いております。
    ゴリゴリの2世として育ちましたが、15歳で組織を離れました。
    現在30代ですが、未だに後悔と疑問に悩まされ、早く解放されたいと感じている毎日です。笑 

    私の疑問は、1914年の根拠として、ネブカドネザルの予言や、7つの時、それに付随するそれなりの計算式を用いて一応は1914年という数字を割り出していた記憶がございます。
    当時は、
    あぁ成る程!凄い!
    と関していましたが、やっぱりそれも違うのですよね、、

    • 管理人 より:

      けんさん、コメントありがとうございます。
      お役に立てているようなら、何よりでございます。

      1914年の年代計算の件についてですが、確かに細かい計算などありましたねw 懐かしいです。

      1914年の年代計算に関しては、私も少し忘れてしまっておりまして、詳しい意見や考えを述べることは出来ません。

      ただ、聖書という本のそもそもの使い方として「トリッキーな計算をして特定の予言的年代を導き出す」みたいな使い方には少し違和感を覚えます。

      1914年の年代計算の他に、聖書中で何か特別な計算を使って特的の予言的年代を導き出すような箇所はありましたでしょうか?

      もしも他に思い当たらないようなら、そもそも「トリッキーな計算によって予言的年代を導き出す」みたいな使い方自体がおかしな聖書の使い方なのかもしれませんね。

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