第2章:聖書の核心

結局のところ「聖書」は何を言いたいのか、これを先に取り上げてしまおうと思います。

聖書はとても分厚い本ですので、全体の内容をしっかりと把握した上で要約している方はなかなか少ないのではと思います。

以下、参考になれば嬉しいです。

 

聖書の世界観、ならびに聖書が言いたいことは結局のところ以下です。

  1. 神と人類との間には決定的な溝がある。よって現在、神は私たち人類の営みに一切干渉していない(できない)
  2. 神の目標は「新しい天と新しい地」。そのために神は「神の王国」の計画を用意した。現在は「神の王国」を準備している段階
  3. 「神の王国」の準備が整い次第「主の審判」が始まる。つまり、神の王国の最初の国家事業は人類の裁判。この裁判では、今まで地球上に存在したすべての人間がひとりひとり裁判にかけられる。この裁判は千年かかる

以上の3点です。

お気付きの通り、創世記から始まって啓示の書で終わる「聖書のテーマ」は結局のところ「新人類への移行計画」です。

そのための「神の王国の構築案」(創世記)であり、そのための「主の審判」(啓示)だと言えるでしょう。

エホバの証人たちも声高に叫んではいないでしょうか、「神の王国!神の王国!」と。

どれくらい中身を把握しているかは知りませんが、神の王国を強調する点においては彼らは間違ってはいません。

では次項から、上記に挙げた3点を1つずつ確認して行きましょう。

1:神は私たち人類の営みに一切干渉していない(できない)

このポイントを理解する上での大切な聖書の世界観、それは神は私たちが考えている以上に「人間的」だという点です。

(逆に言えば、私たち人間は私たちが考えている以上に「神的、神に近い存在」です)。

「わたしたちの像に、わたしたちと似た様に人を造ろう」。そうして神は人をご自分の像に創造された。
創世記 1:26

何が言いたいのかと言いますと、神には私たち人間と同じように一個人としての「強いこだわり」や「好み」があるということです。

逆に言えば、私たち人間に「強いこだわり」や「好み」が見られるのは、他でもない人間のオリジナルである「神」にそれがあるからです。これが聖書の世界観です。

(ちなみに、上記でしたように「神と人間を重ねて認識すること」がグノーシス主義や神秘主義のそもそもの源流です。これはエホバの証人たちが到底到達し得ない知識ですので覚えておく価値があります)

ですから「神に不可能はない」という一般的なイメージは間違っています(イスラム教やヒンドゥー教の神は知りませんが・・)。

聖書の神に限って言えば、神にはできないことが確かにありますし(例えば途中で投げ出すこと)、私たちと同じように強いこだわりや大きな葛藤もあります(例えば律法や古代イスラエル)。

つまり、聖書の神は私たちが思っている以上に私たち人間に近い存在なのです。

神は私たちと同じように両手を上げて喜んだり、唇を噛み締めて悔しがったり、人目を忍んで涙を流したりされるのです。

 

私たちの想像以上に神は私たち人間と似ているゆえに、神も当然ながら「やりたくても事情があってできない」という苦しい状況におかれることが多々あります。

そもそも神は古代イスラエルの時代から不自由を強いられてきたと言えるでしょう。

むしろ聖書が示す歴史の中では、神の思い通りに物事が進んだことの方がむしろ稀だと言えます。

神が苦労して辛そうにしている様子は、ヘブライ語聖書(出エジプト、裁き人に始まり預言書のほぼ全て)の至る所で描写されています。

印象的なのはやはり、民数記14章に記録されているモーセとのやりとりでしょう。

神は古代イスラエルがあまりにも言うことを聞かないので「モーセの子孫からまた新しく国民を作りたい」という愚痴をモーセにこぼしたことがありました。

モーセが必死になって神を説得したのでこの話はなくなりましたが、ここでのポイントは「何でもかんでも神の思い通りに行くわけではない」ということです。

これが聖書の世界観であり、聖書が説明するところの「神の姿」なのです。

エホバの証人が教える「神」のイメージとは、だいぶ違うのではないでしょうか。

 

この「神の姿」の延長線上に、私たちが住んでいる今の時代があります。

ニーチェは「神は死んだ」と言い、無心論者も「神はいない」と言っています。ある意味で彼らは正しいのです。

しかしそれは物理的に存在しないという意味において正しいのではありません。私たち人類の営みに一切干渉していない(できない)という意味において正しいのです。

実際、イエス・キリストもこの点をよく強調していました(マタイ25章など)。「主人は外国に旅行に出かけています」と。

つまり、ちょうどあなたが自宅を不在にして海外旅行に出かけている時と同じように、神も(そしてキリストも)地球を不在にしておられます。

だからこそ、この世界は想像を絶するほどの悲しみと苦しみで溢れている訳です。

 

エホバの証人たち(や、歴代の怪しいキリスト教団体)は、神が不在であり口を開かないことに付け込んで、自分たちの言いたい放題です。

神の名前を勝手に使って「自分たちは油注がれている!」と言いふらしたり、「自分たちだけが神から任命されている!」と言いふらしたりしています。

主人が旅行から帰ってきた時に、主人からなんと言われるでしょうね・・。

 

それにしても、なぜ神は地球を不在にしているのでしょうか。なぜ神は今すぐにでも人類の営みに介入できないのでしょうか。

これはまた別のテーマになっていきますが、現時点では「神には神なりの計画がある」ことを押さえておけば良いでしょう。

忘れないで下さい。神はあなたと同じように一個人としての「強いこだわり」や「好み」を持っています。

あなただって、自分なりの計画に基づいて行動計画を立てることがあるはずです。

それと全く同じです。

いずれにせよ、神が古代イスラエルとの契約を完全に破棄した西暦1世紀頃から現在に至るまで、神は人類に対してはただ聖書のみを残して不在です。

これが聖書の基本的な世界観です。

2:現在は「神の王国」を準備している段階

人間による古い事物の体制を終わらせるため、そして「新しい天と新しい地」を実現させるためにまず神が設置した準備機関、これがつまり古代イスラエルです。

古代イスラエル
メソポタミア地方カルデアに住んでいたアブラハムを始祖とする遥か古代に存在した国家。12の部族から構成されていた。現代のイスラエル国の源流。

最も重要な古代イスラエルの特徴はレビ族による贖罪の儀式劇。この劇は古代イスラエルの最重要の国家的業務として建国から国家崩壊までの間、国の中心地(幕屋、ならびに神殿)でずっと行われていた。

そもそも古代イスラエル王国は神が設置した国家だったので、当然のことながらその初代の王は神でした。

一般的に古代イスラエル初代の王はサウルとされていますが、これでは聖書の正しい世界観をつかみ損ねてしまうでしょう。

イスラエル国民が周りの諸外国と同じように「見える王」を求めたので、しかたなく神はサウルを王位につけましたが、それはあくまでも強情なイスラエル国民に対する妥協的な措置でした(サムエル一 8章)。

 

さて、そもそもなぜ神は古代イスラエルを設置したのでしょうか。

これらの質問にしっかりと答えられるエホバの証人がほとんどいないことは悲劇としか言いようがありません。

なぜなら、これこそが聖書のもっとも重要な核心だからです。

聖書の核心をよく分かっていない点を見ても、エホバの証人の組織と聖書の神エホバとの間にはなんの関係もないことがよく分かります。

これは丁度、パンの「メロンパン」とフルーツの「メロン」の関係に似ているでしょう。

「メロンパン」は確かに名前の先頭に「メロン」という文字を付けてはいますが、フルーツの「メロン」とは一切何の関係もありません。

同じように、「エホバの証人」は確かに名前の先頭に「エホバ」という文字を付けてはいますが、聖書の神「エホバ」とは一切何の関係もないのです。

 

話を戻しましょう。

エホバの証人たちがよく分かっていない聖書の核心、古代イスラエルの設置の経緯(と本来期待されていた流れ)をここで簡単に説明しておきます。

聖書すべてを読むのが面倒な人は、この流れだけでも覚えておいて下さい。これで聖書の核心は全て説明できるようになるはずです。

古代イスラエルが設置された経緯(と本来期待されていた流れ):

  1. 人類の始祖アダムが神の権利を侵害したために、人類と神は法的な対立関係に置かれる(創世記3章)
  2. 神は人類との法的和解を成立させるために、仲裁機関の設置を計画する(創世記3章)
  3. その計画を当時の友人アブラムに持ちかける。アブラムを発起人とする(創世記12章)
  4. アブラムの子孫が一定数を超えたので仲裁機関の準備段階として古代イスラエルを建国(出エジプト19~24章)
  5. 古代イスラエルは仲裁機関の成員提供と人類への宣伝という2つの仕事を任される(出エジプト記、レビ記、民数記)
  6. 仲裁機関の成員提供のために、古代イスラエルは神からの「律法」を守り続ける必要があった
  7. 仲裁機関の人類への宣伝のために、古代イスラエルはレビ族による「贖罪の劇」を演じ続ける必要があった
  8. 仲裁機関の最高責任者(つまり大祭司)は神の長男(いわゆるイエス)になる予定だった
  9. 神の長男が地上に降りて来る頃には、古代イスラエルが機関の成員を満員にしている(はずだった)
  10. 神の長男は満員になった仲裁機関の責任者に就任して、神と人類の和解のとりなしを行う(はずだった)

上記に挙げた10項目が「聖書」の核心的な流れ、本来たどるはずだった人類の歩みとなっております。

そしてお気付きでしょうか。上記に挙げた聖書の核心を説明しているのは、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記の4つだけなのです(申命記は「復習」みたいな位置付け)。

前章「聖書の基本」でも触れましたが、本来「聖書」という本はヘブライ語聖書だけを指している(さらに言えばモーセ五書である、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記だけを指している)というその意味が、これでご理解いただけたと思います。

申命記以降のヘブライ語聖書(ならびにギリシャ語聖書)は全て、神の本来の予定が古代イスラエルの不従順のせいで大幅に狂い、そのせいで起こった数々の出来事を収録しているに過ぎません。

神の予定が大幅に狂ってしまった世界、その世界の延長線上に今の私たちは生活しているのです。

(神の予定が狂ってしまうなど、エホバの証人の神のイメージからすれば考えられないことでしょう。しかし、先述の通り神は私たちが考える以上に私たち人間と似ているのです)

(もちろん、狂ってしまった予定に修正がかけられる訳ですがそれは後述します)

 

いかがでしょうか。以上が聖書が提示する世界観です。

エホバの証人が聖書に関して(本当に大切な核心的な部分は)何も教えていないことが痛いほど分かると思います。

聖書の神の組織を名乗るのであれば、上記に挙げた聖書の核心くらいはきちんと教えて欲しいものです。

 

さて、前述の通り古代イスラエルの当初の役割は本当に輝かしいものでした。そして、古代イスラエルの将来の姿こそが「神の王国」でした。

啓示の書の言葉を借りるのであれば「花嫁」が先に支度を整え「花婿」が後から登場する、というのが神の当初の予定だったと言えるでしょう。

しかしご存知の通り、当初の予定は実現しませんでした。

「花婿」が地上に到来した時「花嫁」は異教や諸外国との甚だしい淫行を積み重ねて「大娼婦」になっていたからです。

こうして、古代イスラエルは神から見放され、新しい「花嫁」となるべく諸国民の人たち、つまり世界中の人たちに神の王国の成員になるという希望が差し伸べられることになります。

古代イスラエルに対する契約が「旧約」となり、諸国民に対する契約が「新約」となったわけです。

 

ちなみに、エホバの証人は啓示の書の中の淫行を繰り返す「大娼婦」のことを「キリスト教世界」と考えているようですがこれは間違いでしょう。

もともと聖書の中で「淫行を繰り返す女」と言えば、それは決まって古代イスラエルのことを指しているからです。

(聖書全体を貫いている「神と古代イスラエルとのドロドロした因縁関係」をしっかり把握していれば、啓示の書で神が言及している「大娼婦」の正体についてあれこれと頭を悩ませる必要はないはずです)

分かりやすい例が、エレミヤ書とエゼキエル書です。

エレミヤ書であれば2章から4章、エゼキエル書であれば16章あたりが分かりやすいと思います。

「売春婦」「姦婦」「淫行を犯した」「契約を破った」という表現が嫌というほどイスラエルに対して繰り返され、その甚だしい売春行為が生々しく糾弾されています。確認してみて下さい。

そもそも、神が契約を結んでいたのは古代イスラエルとであり、キリスト教世界とではありませんでした。

神はキリスト教世界とはなんの契約も結んでいないし、契約を結んでいないのですから「淫行」も「違反」もありません(エゼキエル 16:8)。

さらに言うならば、ヘブライ語聖書でもギリシャ語聖書でも神が目を向けておられるのはもっぱら古代イスラエルか諸国民たちです。

神からしたら現在の「キリスト教世界」というだいぶ後になって人間が作り上げた枠組みなど「無きに等しい」でしょう。

 

余談ですが、エホバの証人が使い方を間違えているもう一つの表現として「ベテル」という言葉があります。

エホバの証人たちは「ベテル」という名称を大変ありがたがり「神の家という意味があるから」という理由で、本部と世界各地にある支部のことを「ベテル」と呼んでいます。

しかしながらヘブライ語聖書の中で「ベテル」と言えば、それはイスラエル王国の分裂後に偽りの崇拝の中心地となった「とても縁起の悪い場所」のことでした。

自分たちの建物に「ベテル」という不吉な名称をつけた当時の指導的な兄弟たちは一体何を考えていたのでしょうか。

ベテル発足の時代からエホバの証人の指導的な兄弟たちが勉強不足だったのかと思うと、情けなくて涙が出てきます。

ただ、洞察の本には「ベテル」の意味がしっかりと記述されていましたので、参考のために該当箇所を引用しておきましょう。

かつてはまことの神が啓示をお与えになった場所として際立っていたベテルも、ヤラベアムの治める北王国の主要都市となってからは、偽りの崇拝の中心地として知られるようになりました。・・レビ族ではない部族から選び出された祭司たちを擁するベテルは、真の崇拝からの大それた背教の象徴となりました。
聖書に対する洞察Ⅱ p719

さて、話を戻しましょう。

千年以上にわたる古代イスラエルの度重なる契約違反にとうとう我慢できなくなり、神は1世紀に古代イスラエルとの契約を破棄される訳ですが、そもそも神と古代イスラエルとが結んでいた契約とは一体どのような契約だったのでしょうか。

出エジプト記の中には古代イスラエルの建国式の様子が詳しく記録されています。

実はこの箇所に、神と古代イスラエルとの間の具体的な契約内容が書かれていますので確認してみましょう。

この点は非常に重要です。

エジプトの地を出た後、第三の月のその同じ日に、イスラエルの子らはシナイの荒野に入った。・・そしてモーセはまことの神のもとに上って行った。するとエホバは山の中から彼に呼びかけてこう言われた。「・・それで今、もしわたしの声に固く従い、わたしとの契約をほんとうに守るなら、あなた方はあらゆる民の中にあって必ずわたしの特別な所有物となる。・・そしてあなた方は、わたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの子らにあなたの言うべき言葉である」
出エジプト記 19:1-7

それでモーセは来て、エホバのすべての言葉とすべての司法上の定めとを民に語り告げた。すると民はみな声をそろえて答えて言った、「エホバの話されたすべての言葉をわたしたちは喜んで行います」。そこでモーセはエホバのすべての言葉を書き記した。・・最後に彼は契約の書を取り、それを民の耳に読み聞かせた。すると彼らは言った、「エホバの話されたすべてのことをわたしたちは喜んで行い、またそれに従います」。そこでモーセはその(雄牛の)血を取り、それを民に振り掛けて、こう言った。「さあ、これらのすべての言葉に関してエホバがあなた方と結ばれた契約の血です」
出エジプト記 24:3-8

このようにして古代イスラエルは誕生しました。

諸説はありますが、この出来事はおおよそ西暦前1500年頃のこととされています。これはイエス・キリストが誕生する実に1500年も昔のことです。

さて、神はどのような目的のために古代イスラエルを建国したのでしょうか。

1つ目の引用太線部に注目して下さい。

あなた方は、わたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる
出エジプト記 19:1-7

聖書によれば、古代イスラエルはなんの脈絡もなく建国されたわけではありません。

そうではなくて、しっかりとした神の目的のもとに建国されています。その目的とは、神に対して「祭司の王国」になるということです。

この「祭司の王国」こそが、先述した神と人類とを和解させる「仲裁機関」ですね。

 

さらに注目して頂きたいのは、神と古代イスラエルとの契約関係が単なる口約束や、古代イスラエルの側の一方的な思い込みなどではなかった、という点です。

2つ目の引用太線部にあるとおり、神と古代イスラエルとの契約関係は「契約の書」というかたちで明確に文書化されています。

最後に彼は契約の書を取り、それを民の耳に読み聞かせた。
出エジプト記 24:3-8

明確に文書化された「契約の書」を神から直接受けたこの瞬間から、古代イスラエルは「神の国民(神の組織)」を公式に名乗るようになりました。

そして古代イスラエルにはその資格が実際に神から与えられており、このゆえに古代イスラエルは正真正銘の「神の組織」でもあったわけです。

神から任命される、というのは本来こういうことなのです。

エホバの証人も「神の組織」を公式に名乗るのであれば、古代イスラエルの建国に匹敵するぐらいの神々しい経験はしておくべきだったでしょう。

「数々の見えない証拠により認識するようになりました」ていどの理由ではあまりに薄弱です。本当にその気なら、任命にあたり神はご自身の声を発せられたでしょう。

それとも、エホバの証人たちは神に口がないとでも考えているのでしょうか。

 

さて、以上のように古代イスラエルが建国された目的とは神に対して「祭司の王国」になるというものでしたが、聖書が言う「祭司」の仕事は「二者を和解させる」というものでした。

では古代イスラエルは、誰と誰との仲を和解させることになっていたのでしょうか。これも既に確認済みですね。

そうです、神と人類です。

人類は古代イスラエルの仲介によって神と和解することになっていました。

この点は、神が古代イスラエルの開祖であるアブラムに対して「祭司の王国」の計画を話しておられる部分にも見受けられるので確認しておきましょう。

地上のすべての家族はあなたによって必ず自らを祝福するであろう。
創世記 12:3

そして、あなたの胤によって地のすべての国の民は必ず自らを祝福するであろう。
創世記 22:18

ご自身と人類との間をとりもつ「祭司の王国」を完成させること、そして人類と和解すること、これが神の人類史の初期から変わらない一貫した目的です。これも先述の通りですね。

「祭司の王国」の完成が神の一貫した目的なので、当然ながら聖書のテーマも「祭司の王国」の完成で一貫されています。

この点についても確認しておきましょう。

あなた方は、わたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる
出エジプト記 19:1-7

するとわたし(ヨハネ)は、み座と四つの生き物との真ん中に、また長老たちの真ん中に、ほふられたかのような子羊が立っているのを見た。・・そして彼らは新しい歌を歌っていう、「・・あなたはほふられ、自分の血をもって、あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人々を買い取ったからです。そして、彼らをわたしたちの神に対して王国また祭司とし、彼らは地に対し王として支配するのです」
ヨハネへの啓示 5:6-10

以上のように、聖書という本は「祭司の王国」で始まり「祭司の王国」で終わっています。

 

さて、上記で言及した通り、もともと「祭司の王国」の成員はすべて古代イスラエルの人々で補充されることになっていました。

先に挙げた出エジプト記の記録の中でも、神が契約を取り交わした相手が古代イスラエルだったことを思い出して下さい。

あなた方は、わたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの子らにあなたの言うべき言葉である。
出エジプト記 19:6

ご自身のみ名を付した正式な契約だったので、神は1500年もの長期間にわたって「祭司の王国」の成員を古代イスラエルによって構成しようと懸命な呼びかけを続けました。しかし、それは叶いませんでした。

愚かにも古代イスラエルは神との契約を1500年間にもわたり破り続けました。

実際、ヘブライ語聖書の約70%はいかに古代イスラエルが神との契約を破り続け、いかに神を侮辱し続けたかの悲しい記録です。

挙げ句の果ては、神と人類の和解の立役者、「祭司の王国」の心臓部とも言える大祭司イエス・キリストを殺害してしまう始末です。

古代イスラエルは自分たちの心臓を刺し殺したわけです。

 

こうしてついに、古代イスラエルは「祭司の王国」に成員を供給するという輝かしい資格を失いました。

神はご自身のみ名を付した契約を実現させるために千年以上も地に身を低くかがめ、忍耐に忍耐を重ねて古代イスラエルから人類との和解のための「祭司の王国」を作ろうと試みました。

しかし、その願いは叶いませんでした。

古代イスラエルは失敗してしまいました。しかし人類と和解するためには「祭司の王国」を完成させなければいけません。

さて、神はどうされたでしょうか。

 

この問題を解決するために、「祭司の王国」の招待の対象が調整されたわけです。

古代イスラエルの失敗以後、神は「祭司の王国」の供給源を1つの組織に限定するのを止めました。

その代わりその招待を諸国の人たち、つまり世界中の人たちに対して広く開放したのです。

聖書巻末の書「ヨハネへの啓示」の中でも、「祭司の王国」への招待が古代イスラエルから諸国の人たちへと開放されていることに注目して下さい。

旧約:

あなた方は、わたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの子らにあなたの言うべき言葉である。
出エジプト記 19:6

新約:

あなたはほふられ、自分の血をもって、あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人々を買い取ったからです。そして、彼らをわたしの神に対して王国また祭司とし、彼らは地に対し王として支配するのです。
ヨハネへの啓示 5:9,10

こうして神は、古代イスラエルから王国を作るという契約を「旧い契約」として破棄し、世界中の人々から王国を作るという契約を「新しい契約」として修正しました。

このようわけで聖書の名称に関しても「大いなる大祭司」の殺害以前、つまり契約対象がまだ古代イスラエルにあった聖書が「旧約聖書」と呼ばれます。

一方で、「大いなる大祭司」の殺害以降、つまり契約対象が世界中の人々に切り替わった聖書が「新約聖書」と呼ばれているわけです。これも、聖書の基本中の基本だと言えるでしょう。

ちなみに、この契約の切り替えに従ったのが当時のキリストの弟子たち(後のキリスト教)で、この契約の切り替えを拒んだのが当時のユダヤ人や宗教指導者たちです(古代イスラエルはどこまでも頑固ですね・・)。

現在のユダヤ教徒たちが新約聖書を絶対に認めていないのも、未だに神の目が自分たちに向けられていると固く信じているからです。

 

さて、「旧約」から「新約」への切り替わりが実際に実行されたのは、厳密に言えば「大祭司殺害」の3年後、つまり西暦36年頃のことでした。

イタリヤ隊の軍人でコルネリオという信仰深い人が、イスラエル人ではない外国人としては初めて「祭司の王国」の成員として正式に神から召されています(使徒 10章)。

この契約の切り替わりを素直に受け入れたのが、初期のキリストの弟子たちです。

それもそのはず。当のイエス・キリストがもっぱら扱っていたテーマが「契約の切り替わり」だったのですから。

イエスの宣教のテーマが「神の王国」だったという点に関してはエホバの証人も正しく認識はしていますが、これだけではかなりの説明不足だと言えます。

正確に言えば、イエスの宣教のテーマは「神の王国の契約修正」です。古代イスラエルが独占していた状態から、世界中の人々へ契約対象が開放されること、これがイエスの宣教のテーマでした。

 

まぁ早い話、イエス・キリストは当時のユダヤ人たちをクビにするために天から降りて来たわけですね。「あなた方は千年以上も甚だしい契約違反を続けて来たのでクビですよ」と。

「次回の契約からはあなた方ユダヤ人たちだけでなく、世界中の人たちも対象になりますのでその辺りよろしくお願いします」と、このようにお知らせに来たわけです。

それに対して、当時の宗教指導者たちやユダヤ人たちが大いに逆ギレしてイエス・キリストを死刑にしてしまった、福音書をあえて単純化するとこのようになるかと思います(ルカ20:9-16)。

イエスの宣教のテーマが「神の王国の契約修正」であったからこそ、イエスがおもに遣わされたのは「囲いの中の羊」つまり古代イスラエルであったにも関わらず「王国のこの良いたよりは人の住む全地で宣べ伝えられる」必要があった、とこのようになる訳です。

 

エホバの証人は「水をぶどう酒に変えた」とか「海の上を歩いた」といった福音書の逸話や、「忠実で思慮深い奴隷はいったい誰でしょうか」といった自分たちの関心事ばかりに注目しているため、イエス・キリストの本来の宣教のテーマに目が向いていません(なんと残念なことでしょう)。

しかしながら、イエス・キリストが福音書のいたるところで繰り返し説明しているのは正にこのことです。特にたとえ話を使った文脈に多く見られます。

ここではごく一部の例を挙げておきますが、しっかりと四福音書の全文を読んでご自身で確認しておいて下さい。

このゆえにあなた方に言いますが、神の王国はあなた方から取られ、その実を生み出す国民に与えられているのです。
マタイ 21:33~43

招いておいた者たちはそれに値しなかった。それゆえ、市外に通ずる道路に行き、だれなりとあなた方の見つける者を婚宴に招きなさい。
マタイ 22:1~13

エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされてた人々を石打ちにする者よ。わたしは幾たびあなたの子供たちを集めたいと思ったことでしょう。めんどりがそのひなを翼の下に集めるかのように。しかし、あなた方はそれを望みませんでした。見よ、あなた方の家はあなた方のもとに見捨てられています。
マタイ 23:37,38

また、わたしにはほかの羊がいますが、それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず、彼らはわたしの声を聴き、一つの群れ、一人の羊飼いとなります。
ヨハネ 10:16

「契約の修正」がイエス・キリストの宣教のテーマだったので、ペテロやパウロといった初期クリスチャンたちも当然のことながらこのテーマをきちんと踏襲しています。

エホバの証人たちはここでも理解が足りない訳ですが、使徒たちやパウロが繰り返し説明しているのもこのこと、つまり「契約対象の変更」でした。

該当箇所を一部あげておきます。

それで、パウロとバルナバは大胆に語って言った、「神の言葉はまずあなた方に対して語られることが必要でした。あなた方がそれを押しのけて、自らを永遠の命に値しない者と裁くのですから、ご覧なさい、わたしたちは諸国民の方に向かいます」
使徒 13:46

ですから、わたしたちの決定は、諸国民から神に転じてくる人々を煩わさず、ただ、偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。
使徒 15:19,20

その憐れみの器とは神が栄光のためにあらかじめ備えられたもの、すなわちわたしたちであり、ユダヤ人だけでなく、諸国民の中からも召されているのです。
ローマ 9:23,24

ほかの世代において、この奥義は、今その聖なる使徒や預言者たちに霊によって啓示されているほどには、人の子らに知らされていませんでした。すなわちそれは、諸国の人々が良いたよりを通してキリスト・イエスと結ばれて、共同の相続人、同じ体の成員、わたしたちと共に約束にあずかる者となる、ということです。
エフェソス 3:5,6

聖書の流れは以上のようになっています。

ゆえに、最初の外国人コルネリオが召された1世紀から現在に至るまで、神はただただ「祭司の王国」の成員が世界中から集まってくるの待っておられる、と言うことができるわけです。

「大祭司」の血はすでに神のみ前に注ぎ出されています。神と人類とが和解するために必要なものは「祭司の王国」の成員の数がそろうことだけなのです。

さて、彼ら(イスラエル)の踏み外しが世にとって富となり、彼らの減退が諸国の人たちにとって富となるのであれば、彼らの数のそろうことはなおのことそのようになるはずです。
ローマ 11:12

わたしはあなた方がこの神聖な奥義について無知でいることがないようにと願うのです。すなわち、諸国の人たちが入ってきてその人たちの数がそろうまで、感覚の鈍りがイスラエルに部分的に生じ、こうして全イスラエルが救われることです。
ローマ 11:25,26

そして、彼らは大声で叫んで言った、「聖にして真実な、主権者なる主よ、あなたはいつまで裁きを控え、地に住む者たちに対するわたしたちの血の復しゅうを控えておらえるのでしょうか」。すると、白くて長い衣がその一人一人に与えられた。そして彼らは、自分たちが殺されたと同じように殺されようとしている仲間の奴隷また兄弟たちの数も満ちるまで、あとしばらく休むように告げられた。
ヨハネへの啓示 6:9~11

いかがでしょうか。

このように聖書を俯瞰してみますと、神がわざわざ再び地上に組織を作る必要性も、わざわざ再び供給源を1つの組織に限定する必然性も特にないことが分かります。

古代イスラエルという1つの地上の組織が失敗したことを受けて、神はわざわざ世界中の人々へと契約を広く開放したのです。

「祭司の王国」という聖書の核心的テーマを軸にして考えた場合の「エホバの証人の信条」を以下に分かりやすくまとめておいたのでぜひ参考にして下さい。

  1. 当初、神は「祭司の王国」の供給源を1つの国家、古代イスラエルに限定していた
  2. キリストの殺害後、神は契約を変更して供給源を世界中の人たちにも広く開放した
  3. 19世紀になって突然、何を思ったのか神は「祭司の王国」の供給源をエホバの証人という地上の非常に小さなグループに再び限定するようになった

以上が、エホバの証人の信じている教えです。現役のエホバの証人たちでさえも首をかしげるのではないでしょうかw

エホバの証人の中心的な教義が真実なら、神は2回も大きな契約変更をしたことになりますし、さらに言えば以前の古い「旧約」に再び戻るような動きをしていることになります。

つまり、エホバの証人たちは「自分たちが信じていることさえよく分かっていない状態」な訳です。困ったものですね。

 

さて、いよいよ「祭司の王国」の定員が満員になったら、その次にはいったい何が待っているのでしょうか。

キリストと、キリストの兄弟たちによる人類の世界的な裁判です。

これもエホバの証人たちからすればかなり馴染みのない話だと思います。しかし、馴染みがないのはエホバの証人たちだけです。

「主の審判」として広く一般に周知されているこの教えは、実はキリスト教の教えの中ではとてもメジャーな教えだと言えます。

神と人類との和解が成立したあと、神の王国の一番最初の国家事業としてキリストとその兄弟たちは「王」として地球上に存在したすべての人間を裁判にかけることになっています。

「ヨハネへの啓示」で説明されている通りです。

あなたはほふられ、自分の血をもって、あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人々を買い取ったからです。そして、彼らをわたしの神に対して王国また祭司とし、彼らは地に対し王として支配するのです。
ヨハネへの啓示 5:9,10

3:すべての人間がひとりひとり裁判にかけられる

ルネサンス期に活躍した巨匠ミケランジェロ・ブオナローティが描いた「最後の審判」はあまりにも有名でしょう。

この絵画はバチカンにあるシスティーナ礼拝堂の壁に描かれています。

最後の審判

イエス・キリストが目に見えるかたちで地上に降りてきて、世界規模の裁判を始めるというものはキリスト教の教義の中ではかなりメジャーなものだと思います。宗教画の中でも昔から描かれ続けてきた題材でもあります。

一方、エホバの証人たちはイエス・キリストが目に見えるかたちで地上に降りてくるという認識も、「自分がキリストの裁判にかけられる」という認識も一切ありません。文字通り皆無です。

しかしながら先述の通り、キリスト教の一般的な教義からすると、キリストは目に見えるかたちで地上に降りてきますし、今まで地球上に存在した人間たちすべてを平等に裁判にかけます。

百聞は一見にしかず、論より証拠。ということで以下、このことに言及しているギリシャ語聖書の中の聖句をほぼ全て挙げておきます

とても大切な部分ですので、しっかり確認して下さい。

あなた方に言いますが、人が語るすべての無益な言葉、それについて人は裁きの日に言い開きをすることになります。
マタイ 12:36

それゆえ、人が、「見よ、彼は荒野にいる」と言っても、出て行ってはなりません。「見よ、奥の間にいる」と言っても、それを信じてはなりません。稲妻が東の方から出て西の方に輝き渡るように、人の子の臨在もそのようだからです。
マタイ 24:26,27

またその時、人の子のしるしが天に現れます。そしてその時、地のすべての部族は嘆きのあまり身を打ちたたき、彼らは、人の子が力と大いなる栄光を伴い、天の雲に乗ってくるのを見るでしょう。
マタイ 24:30

人の子がその栄光のうちに到来し、またすべてのみ使いが彼と共に到来すると、そのとき彼は自分の栄光の座に座ります。そして、すべての国の民が彼の前に集められ、彼は、羊飼いが羊をやぎから分けるように、人をひとりひとり分けます。
マタイ 25:31,32

それでも、あなた方に言っておきますが、今後あなた方は、人の子が力の右に座り、また天の雲に乗って来るのを見るでしょう。(敵に対する発言)
マタイ 26:64

またその時、人々は、人の子が大いなる力と栄光を伴い、雲のうちにあって来るのを見るでしょう。
マルコ 13:26

そしてあなた方は、人の子が力の右に座り、また天の雲とともに来るのを見るでしょう。(敵に対する発言)
マルコ 14:62

そのとき彼らは、人の子が力と大いなる栄光を伴い、雲のうちにあって来るのを見るでしょう。
ルカ 21:27

父はだれひとり裁かず、裁くことをすべて子にゆだねておられるのです。(敵に対する発言)
ヨハネ 5:22

そしてまた、わたしが行ってあなた方のために場所を準備したのなら、わたしは再び来て、あなた方をわたしのところに迎えます。
ヨハネ 14:3

ガリラヤの人たちよ、なぜ空を眺めて立っているのですか。あなた方のもとから空へ迎え上げられられたこのイエスは、こうして、空に入っていくのをあなた方が見たのと同じ様で来られるでしょう。
使徒 1:11

以上が、イエス・キリスト自身(とみ使い)の発言です。「雲のうちにあって来るのを見る」ことが繰り返されています。

弟子たちに対しても、そして敵たちに対しても同じように「天の雲とともに来るのを見る」と発言していることに注目して下さい。

では引き続き、キリストの死後、キリストの教えを引き継いだ聖書筆者たちの発言にも注目してみましょう。

彼らも一貫してキリストの臨在が目に見えること、そして私たちすべてがキリストに裁かれることに言及しています。

またこの方(イエス・キリスト)は、民に宣べ伝えるように、そして、これが生きている者と死んでいる者との審判者として神に定められた者であることを徹底的に証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。
使徒 10:42

律法を行う者が義なる者と宣せられるからです。・・神がキリスト・イエスを通して人類の隠された事柄を裁く日に、このことはなされます。
ローマ 2:13~16

わたしたちはみな、神の裁きの座の前に立つことになるのです。・・わたしたちは各々、神に対して自分の言い開きをすることになるのです。
ローマ 14:10~12

それゆえ、定められた時以前に、つまり主が来られるまでは、何事も裁いてはなりません。主は、闇の隠れた事柄を明るみに出し、また心の計り事を明らかにされます。
コリント一 4:5

わたしたちは皆キリストの裁きの座の前で明らかにされなければならないからです。こうして各人は、それが良いものであれ、いとうべきものであれ、自分が行ってきたことにしたがい、その体で行った事柄に対する自分の報いを得るのです。
コリント二 5:10

それは、あなた方がより重要な事柄を見きわめるようになり、こうして、キリストの日に至るまできずなく、他の人をつまづかせることなく
フィリピ 1:10

こうしてわたしはキリストの日に、自分が無駄に走ったり無駄に骨折ったりしなかったという、歓喜の理由を持てるのです。
フィリピ 2:16

そのみ子の天からの現れを持つようになったかを、彼ら自身が語り伝えているからです。そのみ子は神が死人の中からよみがえらせた方、すなわちイエスであって、来らんとする憤りからわたしたちを救い出してくださる方なのです。
テサロニケ一 1:10

そして、あなた方兄弟たちの霊と魂と体があらゆる点で健全に保たれ、わたしたちの主イエス・キリストの臨在の際にとがめのないものでありますように。
テサロニケ一 5:23

一方患難を忍ぶあなた方には、主イエスがその強力なみ使いたちを伴い、燃える火のうちに天から表し示される時、わたしたちとともに安らぎをもって報いることこそ、神によって義にかなったことであると言えるからです。
テサロニケ二 1:7

わたしたちの主イエス・キリストの顕現の時まで、汚点のない、またとがめられるところのない仕方でおきてを守り行ないなさい。その顕現は、幸福な唯一の大能者がその定めの時に示されるのです。
テモテ一 6:14,15

わたしは、神のみ前、また生きている者と死んだ者とを裁くように定められているキリスト・イエスのみ前にあって、またその顕現と王国とによって、あなたに厳粛に言い渡します。
テモテ二 4:1

わたしは戦いを立派に戦い、走路を最後まで走り、信仰を守り通しました。今から後、義の冠がわたしのために定め置かれています。それは、義なる審判者である主が、かの日に報いとしてわたしに与えてくださるものです。
テモテ二 4:7,8

そしてわたしは、幸福な希望と、偉大な神およびわたしたちの救い主キリスト・イエスの栄光ある顕現とを待っているのです。
テトス 2:13

そして、人がただ一度限り死に、そののち裁きを受けることが定め置かれているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うため、ただ一度かぎりささげられました。そして、彼が二度目に現れるのは罪のことを離れてであり、それは、自分の救いを求めて切に彼を待ち望む者たちに対してです。
ヘブライ 9:27,28

ですから、兄弟たち、主の臨在の時まで辛抱しなさい。ご覧なさい、農夫は地の貴重な実を待ちつづけ、早い雨と遅い雨があるまで、その実について辛抱します。
ヤコブ 5:7

ですが、わたしの兄弟たち、何よりも、誓うことをやめなさい。・・むしろ、あなた方の、「はい」は「はい」を、「いいえ」は「いいえ」を意味するようにしなさい。あなた方が裁きのもとに倒れることのないためです。
ヤコブ 5:12

しかしそうした人々は、生きている者と死んだ者とを裁く備えのある方に対して言い開きをすることになるでしょう。
ペテロ一 4:5

では今、子供らよ、彼と結ばれたままでいなさい。彼が現されるとき、その臨在の際に、わたしたちがはばかりのない言い方ができ、恥を被って彼から退かなくてもよいようにするためです。
ヨハネ一 2:28

イエス・キリストは神の子であられるとの告白をする者が誰であっても、神はそのような者とずっと結びついておられ、その人は神と結ばれているのです。・・こうして、わたしたちに関して愛は全うされました。それは、わたしたちが裁きの日に、はばかりのない言い方ができるようになるためです。
ヨハネ一 4:15~17

自分を神の愛のうちに保ちなさい。そして、永遠の命を目ざしつつわたしたちの主イエス・キリストの憐みを待ちなさい。
ユダ 21

見よ、彼は雲と共に来る。そして、すべての目は彼を見るであろう。彼を刺し通した者たちも見る。また、地のすべての部族は彼のゆえに悲嘆して身を打ちたたくであろう。しかり、アーメン。
啓示 1:7

そして、海はその中の死者を出し、死とハデスもその中の死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いにしたがって裁かれた。
啓示 20:13

見よ、わたしは速やかに来る。そして、わたしが与える報いはわたしと共にある。各々にその業のままに報いるためである。・・わたしイエスは自分の使いを遣わし、諸会衆のためにこれらのことについてあなた方に証しした
啓示 22:12~16

これらのことについて証しされる方が言われる、「しかり、わたしは速やかに来る」。アーメン! 主イエスよ、来てください。主イエス・キリストの過分のご親切が聖なる者たちと共にありますように。
啓示 22:20,21

以上です。

文字通りすべてのギリシャ語聖書筆者たちがキリストの裁判について説明、あるいは言及していることが確認できます。

ギリシャ語聖書では、その全体を通して次のようなことが明確に繰り返されているのです。

  1. イエス・キリストは目に見えるかたちで地上に降りてくる
  2. イエス・キリストは人間すべてをひとりひとり裁判にかける

ここで、驚愕すべき事実をお伝えしましょう。

なんと、ほとんどのエホバの証人たちはイエス・キリストが目に見えるかたちで地上に降りてくることを信じていません。むしろ、それを否定します。

さらに、ほとんどのエホバの証人たちはイエス・キリストが自分を裁判にかけるとは思っていません。むしろ、ハルマゲドンで救われると考えます。

しかしながら上記で確認した通り、イエス・キリストは目に見えるかたちで地上に降りてきますし、イエス・キリストは人間すべてをひとりひとり裁判にかけることになっています。

つまり、家々を回って徹底的に宣べ伝えるべきなのは「クリスマスの起源」などではありません。クリスマスの起源など、人類にはそんなことを悠長に模索している暇などありません。

本来、宣べ伝えるべきはむしろ「目に見えるキリストの裁判が迫っている」ことでしょう。

パウロが言っている通りです。

またこの方(イエス・キリスト)は、民に宣べ伝えるように、そして、これが生きている者と、死んでいる者との審判者として神に定められた者であることを徹底的に証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。
使徒 10:42

手品のようではないでしょうか。

エホバの証人たちはあれほど聖書を愛し、あれほど熱心に聖書を研究しているのに、実は聖書とは全く別の世界を生きているのです。

 

なぜでしょうか。なぜ、エホバの証人たちはこれほどまでに聖書を誤解し、履き違えているのでしょうか。

その秘密は、エホバの証人たちの聖書の研究方法に隠されています。

次章ではこの点について考えます。

 

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