第1章:聖書の基本
まずは聖書の基本から確認しておきましょう(残念ながら、ここに書かれていることの多くは長老や巡回監督たちもよく分かっていません)。
今でこそ聖書は、ヘブライ語聖書(旧約)とギリシャ語聖書(新約)の2部構成となっていますが、聖書はもともとは3部構成でした。
しかも、ギリシャ語聖書は除いて3部構成だったのです。
- トーラー(モーセの律法)
- ネビイーム(預言者たち)
- ケトゥビーム(諸書)
どういうことでしょうか。
イエス・キリストの発言を確認してみましょう。西暦30年頃のこと、イエス・キリストは当時のユダヤ教の権力者たちに対して次のように言い放ったことがありました。
イエスは(サドカイ人たちに)答えて言われた、「あなた方は間違っています。聖書も神の力も知らないからです」
マタイ 22:29
実は、ここでイエスが言及している「聖書」にギリシャ語聖書は含まれていません。なぜなら、イエスの時代にギリシャ語聖書は存在していなかったからです。まだ書き始められてすらいませんでした。
ギリシャ語聖書で一番最初に書き始められたのは「マタイによる書」で、執筆の時期はだいたいキリストの死後10年頃です。
では、イエスにとっての「聖書」とは一体なんだったのでしょうか。
それはヘブライ語聖書です。イエス・キリストにとって「聖書」と言えば旧約聖書、つまりヘブライ語聖書のことでした。
このようなわけで、キリストの頭の中では「聖書」とはヘブライ語聖書のみを指しており、それにギリシャ語聖書は含まれていません。
さらに重要な基本、それはイエス・キリストは正真正銘のユダヤ教徒だったという点です。この基本を無視しないこと、これが聖書の正しい世界観の把握には不可欠です。
つまり、聖書という本はもともとキリスト教の聖典ではありません。それはもともとユダヤ教の聖典です。
そして古くから(イエスが登場する前のずっと古代から)、ユダヤ教徒たちは聖書を3部に分けています。これは見過ごされがちな事実ですが、とても大切な聖書の基本でしょう。
ちなみに、その3部とはトーラー(Torah:モーセの律法)、ネビイーム(Nevim:預言者たち)、ケトゥビーム(Ketubim:諸書)であり、ユダヤ教徒たちは現在でも聖書のことをタナハ/タナク(TNK : Torah, Nevim, Ketubim)と呼んでいます。
それぞれに収録されている書名は基本的には以下のようになっています。
大切なポイントは、この区分けこそが古代から伝わる聖書の伝統的な区分けであることです。
- トーラー(モーセの律法)
創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記 - ネビイーム(預言者たち)
ヨシュア記・裁き人・サムエル記・列王記・イザヤ・エレミヤ・エゼキエル・ホセア・ ヨエル・アモス・オバデヤ・ヨナ・ミカ・ナホム・ハバクク・ゼパニヤ・ハガイ・ ゼカリヤ・マラキ - ケトゥビーム(諸書)
詩編・箴言・ヨブ記・ソロモンの歌・ルツ記・哀歌・エステル記・ダニエル書・ エズラ・ネヘミヤ・歴代誌
付加的な情報については Wikipedia の「ヘブライ語聖書」を参照して下さい。
さて、エホバの証人が本当にイエスに見習いたいと思っているのなら、イエスの認識に自分たちの認識も合わせることから始めるべきではないでしょうか。
イエスにとっても「聖書」と言えば(ギリシャ語聖書を除いて)3部から構成されている書物でした。
イエス・キリストは生まれながらのユダヤ教徒でしたから、自分の親やラビたちから学んだ区分けを使うのは自然でしょうね。
ほんの一例ですが、イエスが実際に発言している様子がこちらです。
イエスは彼に言われた、「あなたは、心をこめ、魂をこめ、思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない」。これが最大で第一のおきてです。第二もそれと同様であって、こうです。「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」。律法全体はこの二つのおきてにかかっており、預言者たちもまたそうです。
マタイ 22:37-40
こうして、義なるアベルの血から(創世記の記述)、あなた方が聖なる所と祭壇の間で殺害した、バラキヤの血に至るまで(歴代誌の記述)、地上で流された義の血すべてがあなた方に臨むのです(イエスが使っていた聖書は「創世記」から始まり「歴代誌」で終わっていた)。
マタイ 23:35
それから(イエスは)彼らにこう言われた。「まだあなた方と共にいた時に、わたしが話した言葉はこうでした。つまり、モーセの律法の中、そして預言者たちと詩編の中にわたしについて書いてあることはみな必ず成就するということです」
ルカ 24:44
ちなみにこの区分は、イエス・キリストだけに限らず、ギリシャ語聖書全体にわたりヤコブやパウロなど当時の弟子たちによっても多用されています。
それはあまりにも多用されているので意識して読みさえすれば、すぐにたくさん見つけることができるでしょう。
イエス・キリストに限らず、ヤコブやパウロといった初期クリスチャンたちも、クリスチャンである以前にユダヤ教徒でしたから、伝統的な区分を使うのはやはり当然と言えます。
エホバの証人たちが本当にイエス・キリストや1世紀の弟子たちに見習いたいと思っているのなら、まずは彼らが本来そうしていたように聖書を3部構成として学び直すのが良いでしょう。
ギリシャ語聖書の由来
さて、ここまでヘブライ語聖書の構成を見てきたわけですが、それではギリシャ語聖書は一体どこからやってきたのでしょうか。このことに触れてから本章を終わりにしようと思います。
簡単に言ってしまえば、西暦33年に起こったイエス・キリストの処刑のあと、いわゆる「クリスチャン(キリスト信奉者)」たちが旧約を重んじるユダヤ教徒たちやカエサル崇拝者たちから激しい虐待を受けるようになりました。
このような激しい迫害を耐え忍ぶために、クリスチャンたちの間ではたくさんの手紙や指示書がやりとりされるようになったわけです。
特に、イエス・キリストの直接の弟子であるペテロやヨハネ、パウロといった主要なクリスチャンたちが執筆した手紙はたくさんの写しが作られ、方々に散らばっていたクリスチャンのグループの間で共有されました。
このような経緯を経て、当時クリスチャンたちの間でやりとりされた膨大な量の手紙や指示書のうち信ぴょう性や権威を保ったもの、これらの文書群が後世のキリスト教のリーダーたちによってまとめられ「ギリシャ語聖書」と呼ばれるに至ったわけです。
ギリシャ語聖書にどの手紙を収録するか(そしてどの手紙を収録しないか)は、西暦397年8月28日の第3回カルタゴ会議で決定されたとされています。
つまり、ギリシャ語聖書とはあくまでも「弟子たちが書いた手紙の寄せ集め」だと言えるでしょう。縮小解釈も拡大解釈もせずありのままの聖書を学ぶこと、これが聖書を誤解しないためのポイントです。
エホバの証人たちは(聖書をよく勉強もしないくせに)「ギリシャ語聖書」の捉え方においても、かなり拡大解釈をしていると思います。
ギリシャ語聖書はキリストの言動録や黙示録を収録している点では確かに非常に特別な存在だと言えますが、そもそも文書の種類が違います。
ですので、正真正銘の「聖書」つまり「ヘブライ語聖書(タナハ)」とはしっかり区別して学ぶべきでしょう。
いかがでしょうか。言うまでもなく今回取り上げた内容はその全てにおいて、聖書の基本中の基本だと言えます。
- 聖書はもともとユダヤ教の聖典
- 聖書はもともと3部構成(トーラー、ネビイーム、ケトゥビーム)
- イエスや弟子たちもこの区分をよく利用していた
- イエスや弟子たちはもともとユダヤ教徒
- 「聖書」とは基本的にヘブライ語聖書
- ギリシャ語聖書とは「手紙の寄せ集め」
当然ながら、エホバの証人のほとんどもこれぐらいの基本は分かっている、と言いたいところですが、残念なことにエホバの証人のほとんどは分かっていません。
イエスが言及している「預言者たち」に至っては聖書第二部のタイトルのことではなく、文字通り「預言者の人たち」だと勘違いしています。
聖書がもともとユダヤ教の聖典だったこと、そしてイエス本人を始め、ヤコブやヨハネやパウロといった弟子たちがもともとユダヤ教徒だったことすら分かっていないエホバの証人は多いでしょう。
残念ながら、エホバの証人たちはこういった聖書の基本中の基本に非常に疎い(うとい)というとても残念な特徴を持っています。
これは会衆の兄弟姉妹たちは当然ながら、統治体の兄弟たちまでにも共通して見られる残念な特徴です(彼らが執筆するものみの塔や出版物を読めば一目瞭然でしょう)。
なぜでしょうか。
理由はとても単純で、こういった聖書の基本を教えられる機会がないからです。これはあなたの会衆の兄弟姉妹たちも、ニューヨークにいる統治体の兄弟たちも同じです。
エホバの証人は聖書の知識に関しては完全に組織に依存しています(統治体たちも過去の統治体が出した見解に完全に依存していますので彼らも結局は同じです)。
よって、エホバの証人たちは組織が教えてくれることしか知りません。
しかもタチが悪いことに、組織の内部から湧いてくる知識だけを受け入れるように教育されます(組織の外の知識は全部サタン)。
聖書がもともと3部構成だったという事実や、イエスや弟子たちがもともとユダヤ教徒だったという事実があったとしても、(その知識が組織内部から発生しない限り)彼らは一生それに気付くことができないのです。
このようなわけですから、毎日聖書を学びながらも聖書の主旨や本来の姿を学び損ねてしまうという恐ろしい事態が起こりうるのです。
パウロが警告している通りではないでしょうか。
(彼らは)常に学びながら、決して真理の正確な知識に達することができないのです。
テモテ二 3:7