『創世記』把握の手引き

まずは結論

創世記には別に「ものみの塔聖書冊子協会」やそれっぽい存在は出てきませんでした。

『創世記』全体の流れとポイント

神は太陽、月、地球、陸地と海洋、動植物たちを創造する (1:1~25)

神は地上に住む自分の子としてアダムを創造。エデンの管理人とする (1:26~2:15)

悪魔の先導によってアダムは神の権利を侵害。人類は宇宙規模の法廷闘争に巻き込まれる。アダムはエデンから追放される (2:16~3:24)

そして私は、お前と彼、またお前の子孫と彼の子孫とを法廷闘争へと持ち込む。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕くでしょう。- 3:15

ポイント
神はここで悪魔の勢力と、この時にはまだ出現していない「彼」つまりキリストを王とする勢力との闘争について言及しています。この闘争の結末についても早々と予告している点もポイントです。

エデン追放後、アダムとエバとの間にカインとアベルが生まれる。しかし二人が成人すると、カインは妬みから弟アベルを殺す。しかしカインへの裁判は保留にされ、人類が増え始める (4:1~26)

アダムからノアまでの系譜。それぞれの生殖年齢と寿命。アダム[130~800 /930才]→セツ[105~807 /912才]→エノシュ[90~815 /950才]→ケナン[70~840 /910才]→マハラエル[65~830 /895才]→ヤレド[162~800 /962才]→エノク[65~300 /365才]→メトセラ[187~782 /969才]→レメク[182~595 /777才]。そしてノアが誕生する (5:1~32)

エノクはまことの神と共に歩み続け、その後いなくなった。神が彼を取られたからである。- 5:24

ポイント
エノクの寿命が365歳と当時の平均からしたら極端に短い理由ですが、パウロによるとそれは「死を見ないために神が彼を移された」からでした。ひょっとしたらエノクは、当時の野蛮な人間たちによる残虐極まりない拷問などにより、残りの数百年を苦しむ可能性などがあったのかもしれません。

当時の人々の寿命が現代の私たちの寿命と比べて非常に長いものであった理由として幾つかの説が提唱されています。その中で個人的に妥当だと感じるものは、① 永遠を前提に創造されていたアダムに近い存在だったこと。② 当時の地球の大気圏は水の層で覆われていたために宇宙からの有害な紫外線や宇宙線を遮断しており、それが人々の長寿に貢献していたというものです。

ちなみに、この大気圏にあった「上方の水 (1:7)」が直後のノアの時代に地表へと降り注ぎ、結果、海洋が地球全体の70%を占めるまでになります。

天に住んでいた神の子たちの一部が反逆して地上へと下り、人間の娘たちとの間で子供を量産する。これらいわゆる堕天使たちによる凄まじい影響力が人間社会へと波及。彼らは人々を悪魔崇拝へ先導することまでする (6:1~6:12; 外典エノク書)

人間社会が暴虐であふれ手がつけられなくなる。神は堕天使たちによって堕落した人類社会を洪水によって壊滅させることを計画。ノアに箱舟を作らせる。先述した「上方の水」を地表へ下らせて大洪水を起こす。 (6:13~9:19)

わたしは、あなた方の魂の血の返済を求める。・・誰でも人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。わたし神は自分の像に人を造ったからです。- 8:5,6

重要なポイント
大洪水の直後、神は人類から受けた権利侵害に対する賠償支払いとして「血の返済」を要求します。この点は非常に重要です。この「血の返済の劇」を演じるために古代イスラエルには祭司団が組織され、この「血の返済」を行うためにイエス・キリストは地上へと下り、人の子として産まれ「人類の側から」血の返済を行ったからです。

ノアは大洪水の後、農夫として余生を送る。 (9:20)(続く・・)

1分で完全論破w エホバの証人は単なる人間の組織

忙しい方のために、エホバの証人が「単なる人間の組織」であることを1分で聖書から完全論破します。

とりあえず2つの論破アプローチを挙げておきますね。参考にどうぞ。

1.「油注がれてます発言=偽預言者」アプローチ

そこでイエスは答えて言われた、「だれにも惑わされないように気を付けなさい。多くの者がわたしの名によってやって来て、『わたしが油注がれた者だ』と言って多くの者を惑わすからです。

その時、『見よ、ここに油注がれた者がいる』とか、『あそこに!』とかいう者がいても、それを信じてはなりません。

偽キリストや偽預言者が起こり、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうとして、大きなしるしや不思議を行うからです。ご覧なさい、わたしはあなた方にあらかじめ警告しました。
マタイ 24:4,5,23

キリスト(Christ):
ギリシャ語クリストスに由来するこの称号は、ヘブライ語のマーシーアハ、つまり「メシア;油注がれた者」に相当します。(マタ2:4, 参照資料付き聖書脚注と比較。)
洞察1 p762

エホバの証人を代表する統治体たちは「自分たちは油注がれた者である」と発言している
↓↓
イエスの警告によると、それを信じてはいけない。つまり、統治体たちは偽預言者
↓↓
論破おわり

2.「1度でも預言ミス=偽預言者」アプローチ

話すようにとわたしが命じたのではない言葉をあえてわたしの名において話す預言者、その預言者は死ななければならない。

もし預言者がエホバの名において話しても、その言葉が実現せず、その通りにならなければ、それはエホバが話されなかった言葉である。その預言者はせん越にそれを話したのである。
申命記 18:20-22

エホバの証人を代表する統治体たちは1914年(瞬く間に天に昇る)、1975年(終わりが来る)など、神の名前を使って何度か大きな間違った発言を行なっている
↓↓
聖書の説明によると、神の名前を使って発言した言葉が1度でも実現しなかった場合、その発言をした人間は例外なく偽預言者。つまり、統治体たちは偽預言者(死ぬべきらしい)。
↓↓
論破おわり

 

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エホバの証人の「世代」についての混乱をアッサリ解決するとこうなる

まずは、イエスが発言した「世代」の意味について考えます。早速、問題となっているイエスの発言を確認しましょう。

あなた方に真実に言いますが、これらのすべての事が起こるまで、この世代は決して過ぎ去りません。
マタイ 24:34

問題となるのは「この世代」という表現ですが、「この世代」とは一体誰のことでしょうか。

実は、答えを私たち自身で推測する必要はありません。

なぜなら、イエス・キリストはご自身の宣教中に「この世代」という表現を何回か使っているからです。上記の話の直前でも使っています。

ゆえに、イエスが誰に対して「この世代」という表現を使っていたか、単純にそれがそのまま答えになります。

では、マタイ書の記述の中に見られるイエス・キリストの「この世代」に関する発言を確認してみましょう。まずは、マタイ12章に見られる発言です。

その時、書士とパリサイ人の幾人かが彼に対する答えとしてこう言った。「師よ、私たちはあなたからのしるしを見たいのですが」。

イエスは答えて彼らに言われた、「邪悪な姦淫の世代はしきりにしるしを求めますが、預言者ヨナのしるし以外には何のしるしも与えられないでしょう。ヨナが巨大な魚の腹の中に三日三晩いたように、人の子もまた地の心に三日三晩いるのです。

ニネベの人々は裁きの際にこの世代と共に立ち上がり、この世代を罪に定めるでしょう。彼らはヨナの宣べ伝えることを聞いて悔い改めたからですが、見よ、ヨナ以上のものがここにいるのです。

南の女王は裁きの際にこの世代と共によみがえらされ、この世代を罪に定めるでしょう。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからですが、見よ、ソロモン以上のものがここにいるのです。
マタイ 12:39~42

この部分でイエスは、書士とパリサイ人たちに代表される「邪悪な姦淫の世代」つまり、不従順な古代イスラエルに対して「この世代」という表現を使っていることが分かります。

書士とパリサイ人たちに代表される不従順な古代イスラエルがイエスをメシアとして受け入れなかったこと、それゆえにイエスは彼らを叱責され「邪悪な姦淫の世代」とか「この世代を罪に定める」と発言しています。

 

ちなみに、この聖句の中にはエホバの証人たちにとっては理解不能であろう(しかし「世代」発言を理解する上ではとても大切な)表現が2つほど出てきています。それは以下の2つです。

  • ニネベの人々は裁きの際にこの世代と共に立ち上がり、この世代を罪に定める
  • 南の女王は裁きの際にこの世代と共によみがえらされ、この世代を罪に定める

これらは一体どのような意味なのでしょうか。1つずつ置き換えて考えてみましょう。

まず「この世代」というのは、書士やパリサイ人たちに代表される不従順な古代イスラエルのことでした。これは先ほど確認した通りです。

次に「立ち上がり」や「よみがえらされ」という表現ですが、これは「復活」のことを意味しています。この点も、ほとんどのエホバの証人にとって難なく受け入れられることだと思います。

では、確認済みの表現に置き換えてみましょう。

  • ニネベの人々は裁きの際に不従順な古代イスラエルと一緒に復活し、不従順な古代イスラエルを罪に定める
  • 南の女王は裁きの際に不従順な古代イスラエルと一緒に復活し、不従順な古代イスラエルを罪に定める

エホバの証人たちからすれば、これらの表現を理解することは非常に難しいことだと思います。おそらく不可能でしょう。

なぜなら、ヨナが宣教したあのニネベの人たちと不従順な古代イスラエルが一緒に復活するなどといった考え方には全く馴染みがないからです。組織はそんなこと一言も言っていません。

さらに、ソロモンの知恵を聞きにやって来たあの女王が不従順な古代イスラエルと一緒に復活するといった考え方にも全く馴染みがありません。組織はそんなこと一言も言ってないのです。

 

組織が言っていないにせよ、イエス・キリストは次のように言っています。

あなた方に言いますが、人が語るすべての無益な言葉、それについて人は裁きの日に言い開きをすることになります。
マタイ 12:36

またその時、人の子のしるしが天に現れます。そしてその時、地のすべての部族は嘆きのあまり身を打ちたたき、彼らは、人の子が力と大いなる栄光を伴い、天の雲に乗ってくるのを見るでしょう。
マタイ 24:30

さらに、組織が言っていないにせよ、ペテロやパウロは次のように言っています。

またこの方(イエス・キリスト)は、民に宣べ伝えるように、そして、これが生きている者と死んでいる者との審判者として神に定められた者であることを徹底的に証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。
使徒 10:42

わたしたちはみな、神の裁きの座の前に立つことになるのです。・・わたしたちは各々、神に対して自分の言い開きをすることになるのです。
ローマ 14:10~12

わたしたちは皆キリストの裁きの座の前で明らかにされなければならないからです。こうして各人は、それが良いものであれ、いとうべきものであれ、自分が行ってきたことにしたがい、その体で行った事柄に対する自分の報いを得るのです。
コリント二 5:10

わたしは、神のみ前、また生きている者と死んだ者とを裁くように定められているキリスト・イエスのみ前にあって、またその顕現と王国とによって、あなたに厳粛に言い渡します。
テモテ二 4:1

これらの聖句を踏まえると、イエス・キリストは人類すべてを復活させ人類すべてを裁判にかける、ということになります。そのために「天の雲に乗ってくる」わけです。

この観点から言えば、キリストの裁判のときにはニネベの人たちも南の女王も不従順な古代イスラエル国民も、人類みな共に復活し、人類みな共にキリストの裁判を受けることになります。もちろん、私たちもです。

 

キリストの裁判のとき、不従順な古代イスラエルはニネベの人たちよりも不利な裁きを受けることが予想されます。なぜなら、ニネベの人たちは預言者ヨナを受け入れましたが、古代イスラエルはキリスト本人を拒否したからです。

キリストの裁判のとき、不従順な古代イスラエルは南の女王よりも不利な裁きを受けることが予想されます。なぜなら、南の女王はイスラエルの王ソロモンを受け入れましたが、古代イスラエルはキリスト本人を拒否したからです。

キリストの裁判のときにはニネベの人たちも南の女王も不従順な古代イスラエル国民も、人類みな共に復活し、人類みな共に裁かれる。イエス・キリストはこのように教えているのです。

 

では、話を「世代」に戻しましょう。

マタイ12章では、イエスは不従順な古代イスラエルに対して「この世代」という表現を使っていたことが確認できました。さらに、イエスが「この世代」という表現を使っている箇所がもう一つあります。マタイ23章です。

偽善者なる書士とパリサイ人たち、あなた方は災いです! あなた方は預言者たちの墓を建て、義人たちの記念の墓を飾り付けて、こう言うからです。「我々が父祖たちの日にいたなら、彼らと共に預言者たちの血にあずかる者とはならなかっただろう」と。

・・こうして、義なるアベルの血から、あなた方が聖なる所と祭壇の間で殺害した、バラキヤの子ゼカリヤの血に至るまで、地上で流された義の血すべてがあなた方に臨むのです。

あなた方に真実に言いますが、これらのこと全てはこの世代に臨むでしょう。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石打ちにする者よ・・
マタイ 23:29~37

イエスが「この世代」という表現を使っているのは誰に対してでしょうか。

この度も、書士とパリサイ人たちに代表される「あなた方」、つまり不従順な古代イスラエルに対してであることが分かります。イエスがこの直後に「エルサレム、エルサレム」と呼びかけていることからも、この点は明らかでしょう。

こうして、この発言の流れの中で、エホバの証人の間で問題となっている例の「世代」発言が続くわけです。弟子たちと一緒にオリーブ山から神殿を眺めている時にイエスは例の「世代」発言をしています。

 

ちなみに、イエスの「世代」発言を正しく理解する上でのポイントが2つあります。

1つ目のポイントは絶対に聖句をつまみ食いしないことです。エホバの証人は聖句のつまみ食いが大好きですが、聖書を正しく理解したい場合これは禁忌です。

弟子たちに対するイエスのこの「世代」発言はマタイ24:1から26:1までの2章にもわたる長い話の中のごくごく一部に過ぎません。ゆえに、イエスの話の全体を把握しておくことが大切です。

2つ目のポイントとして、「イエスの答えには二重の意味がある」などといった面倒な考え方もこの際捨ててしまいましょう。

聖書に記録されている預言の中に「二重の意味を持った預言」などは1つもありませんでした。なのになぜ、あえてここでキリストの預言だけを二重に解釈する必要があるのでしょうか。

さらに、イエス・キリストはあくまでも「古代イスラエル国民」に対して遣わされていたこと、そしてイエスご自身もあくまでこの立場にこだわっていたことを忘れてはいけません。

イエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊の他には誰のところにも遣わされませんでした」

マタイ 15:22~28

ゆえに今回は、あくまでもイエスは古代イスラエルを念頭において話をしておられた、という立場を取ってみましょう。

さて、2章にもわたるイエス・キリストの長い話は、以下のような弟子たちの質問がきっかけとなって始まります。

わたしたちにお話しください。そのようなこと(神殿が崩壊すること)はいつあるのでしょうか。そして、あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか
マタイ 24:3

  1. エルサレム神殿の崩壊という大惨事はいつ起こるのか
  2. キリストの臨在と事物の体制の終結では何が起こるのか

弟子たちの質問内容が上記の2点なので、当然ながらイエス・キリストの回答も2つのセクションに分かれています。

エルサレム神殿の崩壊はいつ?

まずは「エルサレム神殿の崩壊という大惨事はいつ起こるか」という質問に対してのイエスの答えですが、この部分はマタイ24章4節から22節までがその答えとなっています。

  • 偽キリストが出現する(5)
  • 戦争の知らせを聞く(6)
  • 国民は国民に敵対して立ち上がる(7)
  • 食糧不足や地震がある(7)
  • クリスチャンは憎しみの的となる(9)
  • 偽預言者が起こる(11)
  • 不法が増して人々の愛が冷える(12)
  • 王国の良いたよりが全地で宣べ伝えられる(14)
  • エルサレムが軍隊に囲まれる(ルカ 21:20)
  • 嫌悪すべきものが聖なる場所に立つ(15)
  • ユダヤにいる者は山に逃げるべき(16)
  • 乳児の母親にとっては災いの時(19)
  • それが安息日にならないように祈る(20)
  • 二度と起きないような大患難がある(21)

4節から14節までの記述は「事物の体制の終結のしるしは?」に対しての回答と考えても良いと思いますが、今回はあえて話の構成をシンプルにしてみようと思います。

ですから今回は、4節から14節までの回答もあくまで「エルサレム神殿の崩壊はいつ?」に対する回答だったという立場を取ってみましょう。

さて、エルサレム神殿の崩壊は実際に西暦70年8月30日に起きています。これは西暦66年から70年にかけて勃発した対ローマ帝国ユダヤ戦争の最終局面での出来事です。

当時のユダヤ戦争にユダヤの指揮官として参加していたフラウィウス・ヨセフス(37~100年頃)は当時の様子を実際に目撃し、当時の惨状を『ユダヤ戦記』にて詳しく記録しています。

当時を生きたヨセフスやパウロの証言と上記に挙げたイエスの発言を照らし合わせながら考えていきましょう。

偽キリストの出現

パウロの第3回目の宣教旅行の頃(後52~56年)には、パウロが心配するほどに偽キリストの問題は深刻化していたようです。

実際、パウロはテサロニケにあった会衆に宛てて「確かに、この不法の秘事はすでに作用しています」と言っていますし(テサロニケ二 2:7)、エフェソスの監督たちに対しても「あなた方自身の中からも」背教者が起こると言っています(使徒 20:30)。

以上より、エルサレム神殿が崩壊する西暦70年までには偽キリストが起こっており、既に「多くの者を」惑わしていたと言えるでしょう。

戦争の知らせを聞く

ユダヤ戦争の勃発にあたり、ローマ帝国軍の指揮をしていたウィスパシアヌス(後にローマ皇帝となる)はエルサレム北方に位置するガリラヤ地方の諸都市の攻略から取り掛かっています。

具体的な都市名を挙げると、ローマの軍隊はガバラ、ヨタパタ、ティベリアス、タリカイアイ、ガマラ、ギスカラといったガリラヤ諸都市と戦闘を繰り広げ、それらの都市を次々に攻略しています。

つまり、エルサレム神殿の崩壊に先駆けてエルサレムの人々は方々で勃発している戦争の知らせを聞くことになりました。

国民は国民に敵対して立ち上がる

西暦66年、ユダヤ人たちは明らかにローマ帝国に「敵対して立ち上が」りました。ユダヤ人たちはそれまでに決してしなかったような以下のような敵対的行動をとったのです。

  1. 神殿でのローマ帝国のための犠牲の中止(この慣習は100年以上続いていた)
  2. ローマ帝国への貢納(いわゆる人頭税など)の中止
  3. 総督官邸、大祭司官邸、宮殿などへの放火

こうした敵対的行動をもってユダヤ人たちはローマ帝国に宣戦布告をしました。そしてこの決断こそが、後に続く「苦しみの激痛の始まり」となったと言えるでしょう。

歴史家ヨセフスもこのユダヤ戦争に関して『ユダヤ戦記』の書き出しで次のように書いています。

わたしたちの時代においてばかりか、わたしたちが耳にしたかぎり、都市が都市にたいして、あるいは民族が民族に対して戦った戦争の中でも最大規模のものであった
ユダヤ戦記1 p19

食糧不足や地震がある

ヨセフスはエルサレム内の食料不足がいかに深刻で悲惨なものだったかを記録していますが、ここでは紙幅の都合上そのごく一部だけを引用しておきます。

妻は夫から、子どもは父親から食べ物を奪い取った。最も悲惨だったのは、母親が自分の幼子の口から食べ物を奪い取る光景だった。彼女たちは最愛の子が自分の腕の中で息を引き取ろうとしているときでも、その生命に必要な最後の一片の食べ物を奪うことをためらわなかった。・・実際、反徒たちは一片の食べ物を握りしめている幼子を抱き上げると、地面にたたきつけたりもした。
ユダヤ戦記2 p361

地震に関してですが、この箇所で利用されているギリシャ語「σεισμοὶ」はそもそも自然災害としての「地震」に限定される単語ではありません。「振動」の他にも「動乱」「動揺」や「どよめき」といった意味があることにも注目しましょう。

クリスチャンは憎しみの的となる

1世紀のクリスチャンがあらゆる国民の憎しみの的となり、あらゆる迫害に耐え忍ぶ必要があったことは歴史的にも有名です。その迫害は残虐さを極めたものでした。

西暦33年のキリストの死後からエルサレム神殿崩壊の70年までの40年弱の間、クリスチャンたちはユダヤ人たち、ローマ人たち、離散先の土地の人間たちから激しい迫害を受けました。

迫害の主な理由は、ユダヤ教の伝統から離脱したこと、当時は非常に一般的だった神々への崇拝(カエサル崇拝も含む)を断固として拒否していたことが挙げられます。カエサル崇拝の拒否は死罪に値しました。

偽預言者が起こる

ユダヤ戦争の前、そしてユダヤ戦争の期間中に実に多くの偽預言者が発生しました。ヨセフスも次のように記録しています。

ぺてん師やいかさま師どもが、神の霊感を受けたと称して大きな変革を作り出そうとして、人びとを説き伏せ、ダイモンに憑かれたかのようにさせて、荒れ野の中に導き出した。神がそこで彼らに開放のしるしを示してくれる、というのである。
ユダヤ戦記1 p314

エジプト人の偽預言者は、これよりも大きな一撃でユダヤ人たちに悪事を働いた。このいかさま師はユダヤの土地に現れると、自分を預言者だと信じ込ませ、騙された約三万もの者たちを集めると、彼らを荒れ野からオリーブ山と呼ばれるところまで引きまわし、そこからエルサレムへ押し入る構えを見せた。
ユダヤ戦記1 p314

後年になって、ヨセフスはユダヤ戦争を振り返り次のようにも書いています。

ユダヤ人たちの滅びの原因であるが、それは彼らがひとりの偽預言者にたぶらかされたためだった。その日偽預言者は、都の中にいる者たちに向かって、神はユダヤ人たちが神殿に登り、救いのしるしを受けるように命令されたと告げた。実際そのころ、多くの偽預言者が暴君たちによって雇われていた。この偽預言者たちは神の助けがあるからそれを待つようにと告げて市民をたぶらかしていた。
ユダヤ戦記3 p69

不法が増して人々の愛が冷える

ローマ軍に包囲されたエルサレムはまさに無法地帯でした。エルサレム内の暴徒たちがあらゆる不法をやってのけたので、市民たちはローマ軍が一刻も早く自分たちを攻略してくれることを切に待ち望むほどでした。

今や都の至る所が陰謀を企む者やならず者たちの戦場と化し、市民は、その間にあって引き裂かれ、市民たちの屍が山となった。年老いた者や女たちは、絶望のあまりローマ軍が一刻も早くやって来てくれるようにと祈り、外からやって来る者たちとの戦争で、内なる者たちの手による災禍から自由にされるのを切望した。
ユダヤ戦記2 p270

王国の良いたよりが全地で宣べ伝えられる

キリストの死後、ユダヤでの迫害が激しかったことも相まってクリスチャンたちは方々の国々へと離散していきました。「全地で宣べ伝えるように」というキリストの指示も彼らの背中を押したはずです。

注意すべき点ですが、ここでキリストが言っている「全地」という言葉を、現代の私たちの感覚で考えないようにすることは大切でしょう。

というのは、1世紀当時の世界人口は学者によってある程度のばらつきはあるものの、それは2億から3億程度とされているからです。

ゆえに、エルサレム神殿が崩壊するその時までに王国の良いたよりは私たちが考える以上に全地で宣べ伝えられていたと考えられます。パウロも西暦60年頃にコロサイ人たちの会衆に宛てて次のように書いています。

その良いたよりは天下の全創造物の中で宣べ伝えられたのです。私パウロは、この良いたよりの奉仕者となりました。
コロサイ 1:23

エルサレムが軍隊に囲まれる

この記述はマタイ書に記録されているイエスの発言ではなくルカ書に記録されているものですが、特筆すべき興味深い出来事だと思ったので挙げておきます。

ウィスパシアヌスの軍隊がガリラヤ攻略を始める半年ほど前の西暦66年11月25日、シリア総督のケスティオス・ガロスはエルサレムを軍隊で包囲していたにもかかわらず、不可解な撤退をしています。

この点は、ヨセフスも次のように記録しています。

とにかく、ケスティオスは、包囲された者たちの絶望感にも民衆の思いにも気づかず、突如兵士たちを呼び集めると、大きな一撃を受けたわけでもないのに(占領の)望みを捨て、まったく不可解にも、都から引き揚げて行った。
ユダヤ戦記1 p384

ケスティオスのエルサレム包囲の解除によってエルサレムの中にいたクリスチャンたちは確かに外へ脱出する機会を得ることができました。イエスの預言が確かに成就したと言えるでしょう。

しかし厳密に言えば、神殿が崩壊する直前のティトスによるエルサレム包囲の際にも、エルサレム内にいた人々は都から脱出することができました。

しかしこの時の脱出は非常に困難なものでした。というのは、ローマ軍に内部情報が漏れることを恐れた防衛側が投降しようとした市民たちを容赦なく殺していたからです。

嫌悪すべきものが聖なる場所に立つ

イエスのこの預言はエルサレム神殿が存在してた西暦66年にしか成就しえないものでしょう。1914年に当てはめようとするなら、かなりの無理が出てきます。

なぜならその時には「荒廃をもたらす嫌悪すべきものが、預言者ダニエルを通して語られたとおり、聖なる場所に立っているのを見かける」必要があったからです。

ちなみに、エホバの証人たちはこの「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」をローマ軍のことと見なし、聖都エルサレムの包囲をもって「聖なる場所に立った」と考えています。

しかし、ヨセフスはこの点に関してエホバの証人よりも踏み込んだ解説をしているのでその部分を引用しておきましょう。

ヨセフスはエルサレム包囲の際、実際に神殿の聖所に足を踏み入れた集団がいたことを記録しています。

市民はすっかり意気消沈し、恐怖におののいたが、野盗たちの狂気はとどまるところを知らず、ついには自分たちの手で大祭司を選出するまでに至った。・・そして人間たちへの不正な行為に食傷すると、次には神的なものに傲岸不遜な振る舞いを振り向け、ついにはその汚れた足で聖所へ侵入するに至ったのである。・・野盗たちは神の聖堂を自分たちの要塞とし、市民の騒擾が起こればそこへ逃げ込めるようにした。そこは彼らにとって暴君として支配するための聖所だった。

神殿は今や彼らの作戦基地、避難所、われわれに向けられる武器の倉庫となり下がった。世界の人びとによって跪拝され、またその評判を聞いた地の果ての異民族たちによっても敬意を払われてきたこの場所は、他ならぬこの場所で生まれ育った獣のような者たちによって踏みにじられている。

(彼らは)祖国にたいしてなされた預言を成就させた。というのも、もし抗争があり、土地の者たちの手が神の神域を最初に汚すならば、その時には都は陥落し、聖所は戦いの掟により焼け落ちるとする、神の霊感を受けた者たちのいにしえの託宣があったからである。
ユダヤ戦記2 p156,p183,p205

ヨセフスが(恐らくダニエル書に言及し)ここまで踏み込んだ記述をしているのは注目に値するでしょう。エルサレムの市民たちは確かに「荒廃をもたらす嫌悪すべきものが聖なる場所に立っている」のを見ることができました。

ちなみに、暴徒の集団が神殿を制圧したこの時以降から徐々に市民たちへの監視の目は厳しくなり、エルサレムからの脱出が極端に難しくなっていきます。

ユダヤにいる者は山に逃げるべき

この記述も1914年に当てはめることは不可能でしょう。

乳児の母親にとっては災いの時

これは「食糧不足」の項目で確認した通りですが、エルサレム内の食糧不足は恐ろしいほどに深刻だったため母親は自分の子供を食べるほどでした。

マリアという女性に関するヨセフスの記述を引用しておきます。

実際、今やどこへ行っても食べ物を見つけることなどはできなかった。他方、飢えは五臓六腑を突き抜けて骨の髄にまで達し、苛立ちが飢え以上に燃え上がった。ついにマリアは怒りと空腹のため非道なことをやってのけるにいたった。・・マリアはひと思いにわが子を殺した。次にその死体をローストすると、その半分を夢中になって食べ、残り半分を隠し持った。
ユダヤ戦記3 p50

それが安息日にならないように祈る

この記述も1914年に当てはめることは不可能でしょう。

二度と起きないような大患難がある

以上より、ユダヤ人たちにとって国家の滅亡ならびにエルサレム神殿の崩壊に先駆けて勃発したユダヤ戦争こそが先にも後にもない「大患難」だったと言えるでしょう。

確かに、規模で比べてしまえば1914年に起きた第一次世界大戦の方がより「大患難」だったと言えるかもしれませんが、聖書的に言えば、イスラエル国家の滅亡と神殿の崩壊の方が第一次世界大戦とは比べ物にならないほど遥かに「大患難」です。

ゆえに、マタイ24章4節から22節までの記述はあくまで「エルサレム神殿の崩壊はいつか?」という弟子たちへの返答だっと考えるのが妥当です。

エルサレムから避難していた当時のクリスチャンたちは次々に実現していくイエスの預言を思い起こしては、背筋を凍らせていたに違いありません。

イエスの預言を無理にでも1914年に当てはめようとするのは個人の自由ですが、神の民であった古代イスラエルが西暦70年のユダヤ戦争においてまさに大患難を経験していたことだけは覚えておきましょう。

キリストの臨在と事物の体制の終結では何が起こる?

次に「キリストの臨在と事物の体制の終結では何が起こるのか」という質問に対してのイエスの答えですが、この部分は続くマタイ24章23節から31節までがその答えとなっています。

  • 偽キリストや偽預言者が起こる(24)
  • 人の子の臨在が稲妻のように起こる(27)
  • 人々は人の子が天の雲に乗って来るのを見る(30)
  • み使いたちが選ばれたものたちを集める(31)

神殿崩壊のように「いつ起こるのか?」という質問とは対照的に、この場合は「何が起こるのか?」に対する答えなのでわざわざ解説する必要はないでしょう。イエスの発言そのままです。

そして32節以降では、キリストの臨在について「あなた方はそれがいつ来るかを知らないのだから、ずっと見張っているように」という警告が7つの例え話によって繰り返されることになります。リストアップしておきましょう。

ちなみに、「忠実で思慮深い奴隷」の話も「見張っているべき」ことを強調するための7つの例え話のうちの1つに過ぎません。確認して下さい。

  • いちじくの木の例え(32~35)
  • ノアの日の例え(36~39)
  • 二人の男と女の例え(40~42)
  • 盗人の例え(43,44)
  • 忠実で思慮深い奴隷の例え(45~51)
  • 五人の思慮深い処女の例え(25:1~13)
  • 外国へ旅行に出た主人の例え(14~30)

そして25章31節からは、キリストの臨在の後に起こるキリストの裁判の様子について詳しく説明がなされています。

これが「事物の体制の終結には何が起こるのか?」という弟子たちの質問に対する返答の終局部分となります。

人の子がその栄光のうちに到来し、またすべてのみ使いが彼と共に到来すると、そのとき彼は自分の栄光の座に座ります。そして、すべての国の民が彼の前に集められ、彼は、羊飼いが羊をやぎから分けるように、人をひとりひとり分けます。
マタイ 25:31

裁判の様子についての詳しい説明が26章1節に至るまで続いたのち、イエスは弟子たちに対する返答を終えられます。

さて、これらすべてを語り終えてから、イエスは弟子たちにこう言われた。「あなた方の知っているとおり、今から二日後には過ぎ越しが行われます。・・
マタイ 26:1,2

イエスの「この世代」発言について

そろそろ、イエスの「この世代」発言について踏み込みましょう。

この記事の冒頭で確認した通り、マタイ12章と23章においてイエスが「この世代」という言葉を使っているとき、それは一貫して書士とパリサイ人たちに代表される不従順な古代イスラエルを指していました。

そうであれば、問題となっている24章においてイエスが使っている「この世代」という言葉も、同じように不従順な古代イスラエルを指していると考えることが自然ではないでしょうか。

あなた方に真実に言いますが、これらのすべての事が起こるまで、この世代は決して過ぎ去りません。
マタイ 24:34

ここで言われている「この世代」を理解するにあたり、最後に考えるべきは「これらのすべての事」とはいったい何かですが、このことは既に確認済みです。

復習も兼ねて振り返っておきましょう。

  • 弟子たちからの2つの質問
    【マタイ24:1~3】
  • エルサレム神殿の崩壊についての説明
    【マタイ24:4~22】
  • キリストの臨在についての説明
    【マタイ24:23~31】
  • これらのすべての事が起こるまで、この世代は決して過ぎ去りません
    【マタイ24:32~35】
  • 見張っているべきことの6つの例え
    【マタイ24:36~25:30】
  • キリストの裁判についての説明
    【マタイ25:31~46】

以上より「これらのすべての事」とは「エルサレム神殿の崩壊」と「キリストの臨在」である事が分かります。表現を置き換えると次のようになります。

エルサレム神殿の崩壊とキリストの臨在が起こるまで、古代イスラエルは決して過ぎ去りません。

どういう意味でしょうか。読んで字のごとくです。

このことは記事の冒頭で確認済みの、ニネベの人々や南の女王が古代イスラエルと共に復活して裁かれる、という記述とも合致しています。

ニネベの人々は裁きの際にこの世代と共に立ち上がり、この世代を罪に定めるでしょう。・・南の女王は裁きの際にこの世代と共によみがえらされ、この世代を罪に定めるでしょう。
マタイ 12:41,42

この世代は過ぎ去らない=この世代は立ち上がる=この世代はよみがえる、です。

まとめると、「神殿は崩壊するけれども、古代イスラエルはキリストの臨在が起こるまで決して過ぎ去らない、つまりキリストの臨在の際には復活して裁かれる」。イエスが言わんとしていたことは大方以上のようになるかと思います。

この発言は、神殿の崩壊を心配していた、ひいてはイスラエル民族の行く末を心配していた弟子たちに対する非常に的を得た回答になっていたと言えるでしょう。

組織なしで「自分の救い」を達成することは可能か?

そもそも、組織なしで「自分の救い」を達成することは可能なのでしょうか。

ほとんどのエホバの証人たちはこの質問に対して「絶対にムリだ」と答えるでしょう。このように考えるのは以下のような理由があるからだと思います。

  • 組織を任命しておられるのは神なので、組織に対する裏切りは神に対する裏切りである
  • 悪い世の影響から自分を守るためには組織が供給する霊的な食物が絶対に必要である

私も以前、誰にも増して上記のように考えていたのでエホバの証人たちのこの気持ちはすごく理解できます。なので、このような考え方をあえて批判しようとは思いません。

本当に神が組織を任命し、本当に神が組織に対する忠節を求めておられるのであれば、組織なしに自分の救いを達成することは絶対にムリでしょう。組織から距離を置くことにした私は確実に滅ぼされます。

そして組織が提供する霊的な食物が救いに不可欠なのであれば、やはり組織から離れることは死を意味します。集会や大会に出席し続けなければ、将来に待っているのは滅びです。

 

では、ここで一旦整理してみましょう。

上記のことを踏まえると、エホバの証人たちにとって「救いの条件」とは主に次の2点が含まれるということになります。

  1. 組織に忠節を示すことによって神に忠節を示す
  2. 集会や大会に欠かさず出席して世から自分を守る

この点は、多くのエホバの証人たちの組織への熱心さや、集会や大会に出席することへの熱心さを見れば分かるでしょう。救いにつながっていると信じているからこその熱心さです。

しかしながら、私はここで本当に問いたいのですが、そもそも、聖書にはこういったことが書かれているのでしょうか。聖書にはここまで踏み込んだ内容が実際に記述されているのでしょうか。

神によって任命された新しい組織に信仰を置き、またそれに従いなさい。そうすれば、あなた方は救われるでしょう。
??? ?:?

神によって啓示を受けた新しい地上のイスラエルに忠誠を尽くしなさい。そうすれば、あなたは天に宝を蓄えるでしょう。
??? ?:?

否です。

救いの条件として聖書が教えてきたのはあくまでも以下のような事柄です。出エジプトの時代からキリストの時代まで1500年以上ものあいだ一貫してそうでした。それ以上でも、それ以下でもありません。

あなたの兄弟が貧しくなり、あなたの傍にあって財政的に弱くなる場合、あなたはこれを支えなければならない。
レビ 25:35

立場の低い者に恵みを示している人はエホバに貸しているのであり、その扱いに対して神はこれに報いてくださる
箴言 19:17

完全でありたいと思うなら、行って、自分の持ち物を売り、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、天に宝を持つようになるでしょう。
マタイ 19:21

自分の持ち物を売って、憐れみの施しをしなさい。自分のために、擦り切れることのない財布、決して尽きることのない宝を天に作りなさい
ルカ 12:33

あなたがごちそうを設けるときには、貧しい人、体の不自由な人、足なえの人、盲目の人などを招きなさい。そうすればあなたは幸いです。彼らにはあなたに報いるものが何もないからです。あなたは義人の復活の際に報いを受けるのです。
ルカ 14:13,14

イエスは主であるということを公に宣言し、神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら、あなたは救われるのです。
ローマ 10:9

わたしたちの神また父から見て清く、汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち、孤児ややもめをその患難の時に世話すること、また自分を世から汚点のない状態を保つことです。
ヤコブ 1:27

以上のように、貧しい人たちへの善行やキリストへの信仰が救いにつながっていることを示す聖書の直接的な記述はいくらでも見つかります。

では、組織に従うことが救いにつながっていることを示す聖書の直接的な記述はどこにあるのでしょうか。あなたはそれをいくつ思い出せますか。

 

お気付きの通り、出エジプトの時代からキリストの時代までの1500年という聖書の歴史から言っても「組織への忠節が救い」という教えや「集まり合うことが救い」という教えは明らかに異質であり、奇妙な教えです。

出エジプトの時代からキリストの時代まで一貫して神からの是認や救いと結びつけられてきたのはもっぱら「貧しい人たちへの善行」や「弱い人たちへの憐れみ」だからです。

パリサイ人たちがイエスから「まむしらの子孫」と呼ばれたのは、彼らが貧しい人や弱い人たちへの善行を軽視し、人間的な決まりごとに執拗にこだわったからであることを、決して忘れてはいけません。

参考までに、予備校の例え

個人の努力が問われているという点において、救われるかどうかは大学受験に似ています。例えば、次のように考えている受験生のことをどう思うでしょうか。

 

「私は河合塾の生徒だから絶対に合格だ」

 

もちろん良い予備校に通うことは大変助けになるでしょうが、だからと言って「河合塾の生徒=合格」というわけではありません。合格基準はあくまでもその人の学力が高いか低いかに依存するからです。

その人がどの予備校に属していたかが考慮されることは一切ありません。このような意味で、大学受験における合格基準は完全に個人主義だと言えるでしょう。

救いに関しても同様です。どんなに組織が偉大であっても、だからと言って「組織の成員=合格」というわけではないはずです。先に確認した通り、合格基準はあくまでもその人の善行や憐れみが多いか少ないかに依存しています。

では、その人がどの組織に属していたかが評価されることは一切ないのでしょうか。少なくとも、この点については聖書は具体的かつ直接的な説明をしていません。

この辺りは組織に属するメリットとデメリットを天秤にかける必要があるでしょう。

 

さらに言えば、試験範囲を取り違えて指導してしまう予備校のことをどう思うでしょうか。本当は英語が試験範囲なのに、間違えてポルトガル語を熱心に教え込んでしまうような予備校です。

パリサイ人たちはこの点で失敗しました。律法の教師であったパリサイ人たちが民に教えるべきは弱い人たちへの愛や憐れみであったのに、手の洗い方や安息日の守り方という数々の人間のおきてを民に指導しました。

結果、指導を与えたパリサイ人も指導を受けたイスラエル国民も共に失敗し、共に神から退けられたのです。

彼ら(パリサイ人たち)のことはほっておきなさい。彼らは盲目の案内人なのです。それで、盲人が盲人を案内するなら、二人とも穴に落ち込むのです。
マタイ 15:14

この点、組織は大丈夫でしょうか。果たして「救いの試験範囲」を取り違えてはいないでしょうか。

少なくとも私は非常に長いあいだ組織におりましたが、自分の救いを完全にするために持ち物を売って貧しい人たちに与えるようにと組織から励まされたことは一度もありませんでした。

イエスは言われた、「完全でありたいと思うなら、行って、自分の持ち物を売り、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、天に宝を持つようになるでしょう。
マタイ 19:21

少なくとも私は非常に長いあいだ組織におりましたが、イエスと弟子たちが貧しい人たちのために寄付箱を管理していて、たびたび貧しい人たちに寄付をしていたことについて一度も教わりませんでした。

事実、ある者たちは、ユダが金箱を保管していたので、イエスが彼に、「祭りのためにわたしたちが必要とするものを買いなさい」とか、貧しい人たちに何か与えるようにと命じておられるものと思っていた。
ヨハネ 13:29

以上のように、エホバの証人の組織は一般の貧しい人たちへの金銭的な施しについては一度たりとも教えていませんし、具体的な指導を成員に与えているわけでもありません。

それもそうでしょう。天に宝を蓄えるために貧しい人たちに寄付をするようにと成員たちに指導してしまえば、それだけ組織を運営するための寄付は集まらなくなり、これはつまり組織の死を意味するからです。

このように、イエスの教えは本質的に組織を殺します。この点を考えても、お金によって運営される組織の存在自体がイエスの教えからすれば異質であり、奇妙な教えであることが分かると思います。

メリットとデメリット

さて、今まで考えてきた事柄のすべてを踏まえたとしても組織に属することのメリットがあるにはあります。属することのメリットを確認し、さらにデメリットも確認しておきましょう。

メリット:

  • 神や聖書を愛する人たちと集まり合える(ヘブライ10:25)
  • ひとりと比べると宣教の業に取り組みやすい(マタイ28:20)
  • キリストの信者に「コップ1杯の水」を与えられる(マタイ 10:42)

デメリット:

  • 神が話していない偽りを話すことにより死罪になる可能性がある(申命記 18:20-22)
  • 最後の最後にキリストに退けられ歯ぎしりする可能性がある(マタイ 7:21~23。ルカ 13:28)

たとえエホバの証人という「枠組み」にはめられているとしても、そこに集まっているのは間違いなく神を愛しキリストに信仰を置いている人々です。

パウロが言っているように、神を愛する人たちと集まり合い、聖書を学び合うことは実に心地よいことであり「ますますそう」すべきだと思います。共に宣教の業に取り組めるのも大きなメリットでしょう。

さらに、「わたしの兄弟のうち最も小さい者」にというイエスの教えの通り、会衆内で目立たずにいる研究生たちや兄弟姉妹たち、やもめや独身の姉妹たち、子供たちや若者たちに優しさや気遣いを実践できることも大きなメリットです。

ただしデメリットもあります。特に演壇から話をする兄弟たちや、研究生に聖書を教える姉妹たちはこのデメリットに注意すべきでしょう。なぜなら、それは自分の命に関わることだからです。

つまり、神の名を使って偽りを語ってしまえば、ただそれだけで死罪に問われる可能性があります。私たちは自分の口で発言したことに関しても裁かれることになっているからです。悔い改めて方向性を変える必要はあるでしょう。

さらに、キリストに奉仕していると心底考えていたとしても、最後の最後にキリストから否定されてしまう可能性があることも忘れるべきではないでしょう。

その日には、多くの者がわたしに向かって、「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名において預言し、あなたの名において悪霊たちを追い出し、あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか」と言うでしょう。

しかしその時、わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない、不法を働く者たちよ、わたしから離れ去れ、と。
マタイ 7:22,23

組織から離れるにせよ、組織を上手に活用するにせよ、自分の救いを達成できるのは「自分」しかいません。

組織との距離感は自分の事情などを踏まえながらゆっくりと慎重に決定していくのが良いと思います。

組織なしのクリスチャン人生

さて、組織なしで生きていくとして、その人のクリスチャン人生とは具体的にどのような感じになるでしょうか。集会はどうなるのでしょうか。宣べ伝える業はどうなるのでしょうか。

貧しい人たちへの善行

組織なしのクリスチャン人生において、まず第一に優先されるのは貧しい人たちや弱い人たちへの善行です。念のために言っておきますが、これは会衆内だけに限定されません。

イエスは言われた「完全でありたいと思うなら、行って、自分の持ち物を売り、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、天に宝を持つようになるでしょう。
マタイ 19:21

わたしたちの神また父から見て清く、汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち、孤児ややもめをその患難のときに世話すること、また自分を世から汚点のない状態に保つことです。
ヤコブ 1:27

これらの聖句を文字通り実践するためには自分のお金に余裕がないと無理でしょう。無いものを与えることはできません。心の余裕も必要だと思います。

これに、クリスチャンを名乗るにふさわしい外見や生活を維持していくための最低限の経済力も加わります。全財産を売り払ってホームレスになる必要などないことは論じるまでもありません。

 

つまり、クリスチャンは精力的に働き、貧しい人たちに寄付できるぐらいには一生懸命に働くべきでしょう。必要であれば自分の能力を伸ばしたり資格を取るのも良い考えだと思います。

売ることのできる「財産や能力」が多いに越したことはありません。支えることのできる「孤児ややもめ」が多いに越したことはないからです。

余分にお金があるからといって不必要に大きな家に引っ越したり、不必要に高級な車や時計を購入したりするのはクリスチャンのすることではありません。

「必要」という一線を超えたお金はすべて貧しい人や弱い人たちへの善行や慈善活動に回すのが優秀なクリスチャンのすることです。その分、天に宝を積むことができるからです。

しかしあなたは、憐れみの施しをする際、あなたの右の手がしていることを左の手に知らせてはなりません。あなたの憐れみの施しがひそかになされるためです。そうすれば、ひそかに見ておられるあなたの父が報いてくださるでしょう。
マタイ 6:3,4

このように考えてみますと、天の父は地上にいる子供たちの中でも特に貧しくて辛い思いをしている子供たちのことを気にかけていることが伺い知れます。

自分の子供たちの中でもやはり弱い子供たちを気にかけてしまうのは、神であれ人間であれ「父親」の心情のようです。

私たちは天の父を安心させ、喜ばせるべきではないでしょうか。

キリストを宣べ伝える業

宣べ伝える業に関しては、善行や慈善活動とセットでなされるのが理想的でしょう。実際、イエス・キリストの宣べ伝える業もたいていの場合は善行や慈善活動とセットでなされています。

それからイエスはガリラヤの全土をあまねく巡り、諸会堂で教え、王国の良いたよりを宣べ伝え、民の中のあらゆる疾患とあらゆる病を治された。

すると、彼の評判はシリア中に伝わり、人々は、具合の悪い者すべて、様々な疾患や苦痛に悩む者、悪霊にとりつかれてたり、てんかんであったり、まひしたりしている者を彼のところに連れてきた。それでイエスはその人々を治された。
マタイ 4:23

善行によってイエスの良い評判が広まり、群衆がイエスのもとに集まり、それからここでは山上の垂訓を開始しておられます。

マタイ書を読めばすぐに気付くと思いますが、イエス・キリストの宣教の業は病人たちや弱い人たちへの奇跡(つまり善行)と必ずと言っていいほどセットになっています。確認して下さい。

そもそも、私たちは「世にあって光」とならなければなりません。私たちの存在は神とキリストの栄光に直結しているべきです。

あなた方の光を人々の前に輝かせ、人々があなた方の立派な業を見て、天におられるあなた方の父に栄光を帰するようにしなさい。
マタイ 5:16

では質問ですが、以下のクリスチャンのうちどちらが「より」神に栄光を帰すでしょうか。

  • なんの脈絡もなく他人の玄関のドアに立っていきなり「今日は聖書について・・」と語るクリスチャン
  • 弱い人たちへの善行に励み知人にことあるごとに「私はクリスチャンだから・・」と語るクリスチャン

論じるまでもないでしょう。

集まり合うこと

パウロはヘブライ人たちの会衆へ次のように書きました。

ある人々が習慣にしているように、集まり合うことをやめたりせず、むしろ互いに励まし合い、その日が近づくのを見てますますそうしようではありませんか。
ヘブライ 10:25

エホバの証人たちは特にこの聖句を重視しています。もちろん、それは正しいことです。「盲人が盲人を案内しなければ」という条件付きではありますが。

 

さて、神とキリストを愛する人々と集まり合えればそれは本当に理想的なことだと思います。お互いに「盲人」でないとすれば、それは本当に励みになるでしょう。

もちろん、パウロも「それが本当に励みになるから」という理由で集まり合うことを強く勧めていたのでしょうが、同じほど大きな理由として「大規模な背教が迫っていたから」というものがありました。

パウロはテサロニケの会衆に宛てて、キリストの臨在に先立って大規模な背教があることに言及しています。

だれにも、またどんな方法によってもたぶらかされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が来て、不法の人つまり滅びの子が表し示されてからでなければ、それは来ないからです。
テサロニケ二 2:1~12

イエス・キリストも、キリストの臨在まで背教の勢力と正しいクリスチャンたちが「一緒に成長する」ということを言っています。

彼は言いました、「いや。雑草を集めるさい、小麦も一緒に根こぎにすることがあってはいけない。収穫するまで両方とも一緒に成長させておきなさい。収穫の季節になったら、わたしは刈り取る者たちに、まず雑草を集め、焼いてしまうためにそれを縛って束にし、それから、小麦をわたしの倉に集めることに掛かりなさい、と言おう」
マタイ 13:24~30

イエス・キリストの発言とパウロの発言を考えると、キリストが臨在するまでの背教の勢力は決して無視できるレベルではないことが分かります。キリスト教の暗黒の歴史を見ても実際にそうです。

さらにイエスの例えに注目してしまえば、その期間においては小麦グループと雑草グループとが「別々に成長する」というよりは、それらが「混ざって成長する」ということになるかと思います。

そうであるなら、「終わりの日」において正しいクリスチャンたちだけが一同に介して集会を開くことなど、そもそも期待できるものではないのかもしれません。

 

結局、キリストの裁判のときに裁かれるのは個人です。もし仮に誰か、あるいは何かのせいで自分が失敗したとしても、それを言い訳にすることは許されていません。

これはつまり、キリストの裁判のその時に「組織」はことごとく役に立たないことを意味しています。自分の救いは、自分の手で勝ち取るほかないのです。

わたしたちはみな、神の裁きの座の前に立つことになるのです。・・わたしたちは各々、神に対して自分の言い開きをすることになるのです。
ローマ 14:10~12

この記事が、あなたの栄光ある勝利における一助となりますように。

聖書の中には「奉仕の僕」という立場は本当は存在しない?

エホバの証人の組織の中には、長老を支える立場として「奉仕の僕」という立場があります。長老たちが牧する業に専念できるように、会衆の事務的な仕事は特に「奉仕の僕」たちが担当します。

この役割分担の根拠になっている聖句は以下です。イエスの死後、自分たちが教える業に専念するために十二使徒たちは7人の男子を任命して食物の分配に当たらせています。

兄弟たち、あなた方の中から、霊と知恵に満ちた確かな男子七人を自分たちで捜し出しなさい。わたしたちがその人たちを任命してこの必要な仕事に当たらせるためです。しかしわたしたちのほうは、祈りとみ言葉の奉仕とに専念することにします。
使徒 6:3,4

「長老」の資格をとらえるには必ず「奉仕の僕」という資格をとらえている必要があるので、「奉仕の僕」という資格は若い兄弟たちの目標として励まされたり、霊性の目安として言及されたりします。

さらに、「奉仕の僕」という資格をとらえるためには満たすべき条件があり、その条件としてテモテ第一3:8−10、12がよく引用されます。読者がクリスチャン男子なら馴染み深い聖句でしょう。

同様に、奉仕の僕たちもまじめで、二枚舌を使ったりせず、大酒にふけらず、不正な利得に貪欲でなく、・・奉仕の僕たちは一人の妻の夫であり、子供と自分の家の者たちを立派に治めているべきです。
テモテ第一 3:8~10,12

上記に挙げた2つの箇所が「奉仕の僕」という役割と、その任命に関わる聖書的な根拠となっています。

ギリシャ語では一貫して「ディアコノス=奉仕者」

実は、元々のギリシャ語聖書には役職としての「奉仕の僕」という概念はありませんでした。

エホバの証人の組織が突然、テモテ第一3章の「ディアコノウス」という表現を「奉仕の僕」という表現に翻訳し、役職としての「奉仕の僕」の概念を導入しています。

詳しく説明すると、以下のようになります。

 

ギリシャ語の原文では、3:8のこの部分は元々「Διακόνους(ディアコノウス)」と表記されています。3:12の方は「διάκονοι(ディアコノイ)」です。英語に翻訳する時はどちらも一貫して「Servants(奉仕者たち)」と翻訳されます。

実は「ディアコノス」という単語が出てくるのは聖書のこの部分だけではありません。イエス・キリストやパウロの発言を含め、ギリシャ語聖書のあらゆるところで「ディアコノス」という表現が使われています。

幾つか例を挙げてみましょう。

かえって、だれでもあなた方の間で偉くなりたいと思う者はあなた方の奉仕者(διάκονος)でなければならず、また、だれでもあなた方の間で第一でありたいと思う者はあなた方の奴隷でなければなりません。
マタイ 20:26

わたしは言いますが、キリストはまさに、神の真実さのために、割礼を受けた者たちの奉仕者(διάκονον)となり、こうして、神が彼らの父祖になさった約束の確かさを証拠だて、・・
ローマ 15:8

わたしはあなた方に、ケンクレアにある会衆の奉仕者(διάκονον)である、私たちの姉妹フォイベを推薦します。
ローマ 16:1

その良いたよりは天下の創造物の中で宣べ伝えられたのです。私パウロは、この良いたよりの奉仕者(διάκονος)となりました。
コロサイ 1:23

いかがでしょうか。「ディアコノス / ディアコノン」という単語はイエス・キリストにも、パウロにも、ひいてはフォイベという女性に対しても適応されているのです。

まとめると次のようになります。

  • διάκονος(ディアコノス)=奉仕者【マタイ20:26】
  • διάκονον(ディアコノン)=奉仕者【ローマ15:8】
  • διάκονον(ディアコノン)=奉仕者【ローマ16:1】
  • διάκονος(ディアコノス)=奉仕者【コロサイ1:23】
  • διακόνους(ディアコノウス)=奉仕の僕【テモテ一3:8】
  • διάκονοι(ディアコノイ)=奉仕の僕【テモテ一3:12】

テモテへの手紙の例の部分だけが「奉仕者」ではなく「奉仕の僕」、英語では「Ministerial servant」という独特な呼称に翻訳されていることは実に奇妙なことです。

本来であれば「奉仕の僕」という翻訳は誤りで、他の聖句と同じように単に「奉仕者」と翻訳するべきだからです。

実際に、新世界訳聖書(1985年版)の翻訳委員会も『The Kingdom Interlinear Translation of the GREEK SCRIPTURES』にて「ディアコノス」という言葉を「Ministerial servant」ではなく、一貫して「servant / servants(奉仕者)」と訳しています。

マタイ書の「ディアコノス」も、テモテへの手紙の「ディアコノウス」や「ディアコノイ」も、ローマ書の「ディアコノン」も一貫して「servant / servants(奉仕者)」という翻訳です。

エホバの証人の本家本元(つまり、新世界訳聖書翻訳委員会)がそのように翻訳しているのですから、誰も反論できないのではないでしょうか。

 

以上より、テモテの手紙で説明されているのは役職としての「奉仕の僕」についてではなく、単に神の「奉仕者」についてだったと言えるでしょう。

イエス・キリストは古代イスラエル人に対して「奉仕者」となりました。パウロもフォイベも良いたよりの「奉仕者」となりました。

同じように私たちも、二枚舌を使ったり、大酒にふけらないような神の「奉仕者」になるべきである、というわけです。

 

それにしても、聖書中に存在すらしなかった役職を神はどのようにして「聖霊によって任命」するというのでしょうか。これもまた奇妙なことです。

イエスが死ぬ直前に神に対して叫んだのは弱気になったから?

『マタイによる書』の中に、イエス・キリストが弱気になっているように見受けられる記述があります。それは、イエス・キリストが杭にかけられ、息を引き取られる直前の記述です。

第九時ごろ、イエスは大声で呼ばわって、「エリ、エリ、ラマ サバクタニ」、つまり、「わたしの神、わたしの神、なぜわたしをお見捨てになりましたか」と言われた。
マタイ 27:46

これだけを読むと確かに、イエスは杭の上で弱気になってしまい神に訴えかけている、という捉え方もできるでしょう。

あるいは組織が一貫して教えてきた通り、イエスの忠実さが本物かどうか試すために最後の最後に神が保護を取り去られたのだ、という捉え方もあります。

 

聖書が直接的な説明をしていない以上、どのように考えるかは個人の自由だと思います。

「よほど大きな試練だったんだろう」と考えても良いでしょうし、組織が教えている通り「エホバはイエスの忠実さを試しておられたんだろう」と考えても良いでしょう。これは個人の自由です。

しかしながらこの記述は、当時のユダヤの人々の文化や習慣を知っていると全然ちがう捉え方もできます。この捉え方ですとイエスは別に弱気になったわけでもありませんし、神がイエスの苦しみを許されたわけでもありません。

ユダヤの人々の聖書引用の文化

福音書に精通しておられる方なら、イエス・キリストが頻繁にヘブライ語聖書を引用していたことをご存知でしょう。

サタンの誘惑に対抗するためにも申命記8:3を引用しましたし、神殿の商売人を叱った時にもイザヤ56:7を引用しました。もちろん、これらはほんの一例です。

 

さらに、当時のユダヤの人々の文化として「聖書中の特定の範囲を引用する際には、冒頭の書き出しを引用してしまう」というものがありました。

分かりやすい例がヘブライ語聖書の書名です。「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の元々のヘブライ語名称はそれぞれ「初めに」「名である」「呼び」「荒野で」「言葉」であり、これらは全て冒頭の書き出しがそのまま書名となっています。この点は、参照資料付き聖書の脚註を参照して下さい。

 

同じように、イエス・キリストが杭の上で叫んだ短い言葉も実は「聖書の引用」だった、と考えることができます。では、イエスは聖書のどこの部分を引用していたのでしょうか。

これも、新世界訳聖書の参照聖句を引けば答えが分かります。マタイ27:46の「なぜわたしをお見捨てになりましたか」の右上に小さく「ソ」と書かれており、参照聖句が詩編22:1であることが分かります。

では、詩編22:1の内容を確認してみましょう。

わたしの神、わたしの神、なぜあなたはわたしをお見捨てになったのですか。なぜわたしを救うことから、わたしが大声で叫ぶ言葉から遠く離れておられるのですか。
詩編 22:1

イエス・キリストの発言が、そっくりそのまま記述されていることが分かります。

ポイントは、イエスは詩編22:1だけを引用されたわけではなく、詩編22編の書き出しの引用をもって、詩編22編の全体を引用されているということです。

これはちょうど、創世記や出エジプト記の書き出しをもってその書名としていることと同じ理屈です。

 

では、詩編22編にはどのようなことが書かれているのでしょうか。勘の鋭い読者ならもうお気づきでしょう。メシアが経験する事柄に関する預言が書かれています。

詩編22編にはメシアが虫のように扱われること、あざ笑われること、衣服の上でくじが引かれることなどが記述されています。

イエスは詩編22編の全体を引用することによって預言通りのことが現に今起こっていること、つまり、自分こそが詩編で予告されていたメシアであることを宣言されていたのです。

 

以上のように、背景的な知識がないとイエスの発言を正しく理解することはできないでしょう。

実際、イエスの近くでその発言を聞いていた人々は「この人はエリヤを呼んでいるのだ」などとかなり的外れな勘違いをしています。これは本当に残念なことではないでしょうか。

知識が乏しいと、イエスの華々しい勝利宣言が「エリヤを呼んでいる」とか「弱気になった証拠」とか「神が保護を取り去られた」になってしまうのです。

 

エホバの証人の方々も早く「理解の光」が当てられるようになって、イエスの華々しい勝利宣言を正しく認識するようになって欲しいものです。

エホバの証人たちが知らない「エホバの最大のご意志」まとめ

聖書の神は私たちに対して、貧しい人たち、社会的に恵まれない人たち、苦しんでいる人たちを大切にすることを望んでいるようです。この点は古代イスラエルの時代から何も変わっていません。

残念ながら、パリサイ人たちはこの点で大失敗し、イエスから「蛇よ!まむしらの子孫よ!」と激しく糾弾されてしまいました。

パリサイ人たちは、貧しい人や障害を持つ人たちを「罪人」と呼んで見下し、神殿や会堂での務めや、手の洗い方、安息日に歩ける距離など「とても細かい部分」に執拗にこだわったからです。

このようなわけで当時、イエスはパリサイ人たちに次のように勧めました。

憐れみの施しとして、内側にあるものを与えなさい。そうすれば、見よ、あなた方に関しては他のすべてのものは清くなるのです。
ルカ 11:41

残念ながら、エホバの証人もパリサイ人と似ております。

一般の貧しい人たちや社会的弱者への寄付を励ますことなど一切なく、むしろ普通の人たちを「世の人」と呼んで見下し、集会や大会での務めや、誕生日や乾杯など「とても細かいどうでもよい部分」に執拗にこだわっているからです。

 

さてこの記事では、集会や大会、会衆内でのいかなる仕事よりも遥かに優先されるべき神への奉仕、つまり社会的に恵まれない人たちのために行動すること、について聖書の中で説明されている部分をリストアップしておきたいと思います。

イエスがパリサイ人たちに対して「これらこそ行う務めがありました」と言っていた部分です。

(エホバの証人たちが「これら」を知らないのは非常に残念なことですね)

創世記から啓示までに登場する聖句のごく一部ですが、リストアップしていきます。お時間が厳しい方は、一番最後の「まとめ」の部分だけでもお読み頂ければと思います。

神の最大のご意志リスト

あなたの兄弟が貧しくなり、あなたの傍にあって財政的に弱くなる場合、あなたはこれを支えなければならない
レビ 25:35

立場の低い者や父なし子のために裁きを行う者となれ。苦しんでいる者や資力の乏しい者に公正を行なえ。
立場の低い者や貧しい者を逃れさせ、邪悪な者たちの手から彼らを救い出せ。
詩篇 82:3,4

資力の乏しい者をあざ笑っている者はその造り主をそしったのである。
箴言 17:5

立場の低い者に恵みを示している人はエホバに貸しているのであり、その扱いに対して神はこれに報いてくださる。
箴言 19:17

あなたの口を開き、正しく裁き、苦しんでいる者や貧しい者の言い分を弁護せよ。
箴言 31:9

地の人よ、何が善いことかを神はあなたにお告げになった。・・ただ公正を行い、親切を愛し、慎みをもってあなたの神と共に歩むことではないか。
ミカ 6:8

誰も二人の主人に奴隷として仕えることはできません。・・あなた方は神と富とに奴隷として仕えることはできません。
マタイ 6:24

人が語るすべての無益なことば、それについて人は裁きの日に言い開きをすることになります。
マタイ 12:36

人の子は、自分の使いたちを伴って父の栄光のうちに到来することに定まっており、その時、各々にその振る舞いに応じて返報するのです。
マタイ 16:27

「師よ、永遠の命を得るために、わたしはどんな善いことを行わなければならないでしょうか。」「・・完全でありたいと思うなら、行って、自分の持ち物を売り、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、天に宝を持つようになるでしょう」
マタイ 19:16~21

彼らは、やもめたちの家を食い荒らし、見せかけのために長い祈りをするものたちです。こうしたものたちはより重い裁きを受けるでしょう。
マルコ 12:38~40

「この香油なら三百デナリ以上で売れたし、そうすれば貧しい人たちに施すこともできたのに!」「あなた方はいつでも望む時に彼らに善を行えます」
マルコ 14:5,7

あなた方の敵を愛しつづけ、善を行いつづけ、何か返してもらうことなど期待せずに利息なしで貸すことを続けてゆきなさい。そうすれば、あなた方の報いは大きく、あなた方は至高者の子となるのです。
ルカ 6:35,36

裁くのをやめなさい。そうすれば、あなた方が裁かれることは決してないでしょう。・・いつも放免しなさい。そうすれば、あなた方も放免されるでしょう。
ルカ 6:37

自分の持ち物を売って、憐れみの施しをしなさい。自分のために、すり切れることのない財布、決して尽きることのない宝を天に作りなさい。
ルカ 12:33

あなた方がごちそうを設けるときには、貧しい人、体の不自由な人、足なえの人、盲目の人などを招きなさい。・・彼らにはあなたに報いるものが何もないからです。あなたは義人の復活の際に報いを受けるのです。
ルカ 14:13,14

ザアカイは立ち上がって主に言った、「ご覧ください、主よ、わたしは持ち物の半分を貧しい人々に与えています」。イエスは彼に言われた、「この日に救いはこの家に来ました」
ルカ 19:8,9

わたしのおきてを持ってそれを守り行う人、その人はわたしを愛する人です。さらに、わたしを愛する人はわたしの父に愛されます。
ヨハネ 14:21

イエスは主であるということを公に宣言し、神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら、あなたは救われるのです。
ローマ 10:9

あなたはなぜ自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ自分の兄弟を見下げたりするのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つことになるのです。
ローマ 14:10

あなた方は、不義の者が神の王国を受け継がないことを知らないとでも言うのですか。・・淫行の者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、不自然な目的のために囲われた男、男どうしで寝る者、盗む者、貪欲な者、大酒飲み、ののしる者、ゆすり取る者はいずれも神の王国を受け継がないのです。
コリ一 6:9,10

律法全体は一つの言葉、すなわち、「あなた方は隣人を自分自身のように愛さねばならない」の中に全うされているからです。・・互いによって滅し尽くされてしまうことのないよう気をつけなさい。
ガラテア 5:14,15

肉の業は明らかです。それは、淫行、汚れ、淫らな行い、偶像礼拝、心霊術の行い、敵意、闘争、妬み、激発的な怒り、口論、分裂、分派、・・です。そのような事を習わしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません。
ガラテア 5:19~21

あなた方兄弟たちの霊と魂と体があらゆる点で健全に保たれ、わたしたちの主イエス・キリストの臨在の際にとがめのないものでありますように。
テサロニケ一 5:23

その際イエスは、神を知らない者と、わたしたちの主イエスについての良いたよりに従わない者に報復をするのです。
テサロニケ二 1:7,8

わたしたちの主イエス・キリストの顕現の時まで、汚点のない、またとがめられるところのない仕方でおきてを守り行いなさい。
テモテ一 6:14

そして、善を行い、立派な業に富み、惜しみなく施し、進んで分け合い、自分のため、将来に対する立派な土台を安全に蓄え、こうして真の命をしっかりととらえるようにと。
テモテ一 6:18,19

わたしたちの神また父から見て清く、汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち、孤児ややもめをその患難の時に世話すること、また自分を世から汚点のない状態に保つことです。
ヤコブ 1:27

憐れみを実践しない人は、憐れみを示されることなく自分の裁きを受けるのです。憐れみは裁きに打ち勝って歓喜します。
ヤコブ 2:13

思いやりを示し合い、兄弟の愛情を抱き、優しい同情心に富み、謙遜な思いを抱きなさい。危害に危害、罵りに罵りを返すことなく、かえって祝福を与えなさい。あなた方はそうした道に召されたからです。それはあなた方が祝福を受け継ぐためなのです。
ペテロ一 3:8,9

最終的に汚点も傷もない、安らかな者として見出されるように力を尽くして励みなさい。
ペテロ二 3:14

誰であろうと、生活を支えるこの世の資力があるのに、自分の兄弟が窮乏しているのを見ながら、その兄弟に向かって優しい同情心の扉を閉じるなら、その人にはどのようにして神の愛がとどまっているでしょうか。子供らよ、言葉や舌によらず、行いと真実とをもって愛そうではありませんか。
ヨハネ一 3:17,18

これが神のおきてです。すなわち、私たちがそのみ子イエス・キリストの名に信仰を持ち、彼が私たちにおきてを与えた通り、互いに愛し合うことです。
ヨハネ一 3:23

そのおきてを守り行うこと、これがすなわち神への愛だからです。
ヨハネ一 5:2,3

だいたい、以上のようになっております。

「・・え、集会は?」「奉仕は?」「バプテスマは?」「組織への寄付は?」と、疑問に思われるでしょうか。

確かにパウロは「集まり合うように」と述べ、イエスも「宣べ伝え、バプテスマを施しなさい」と言っています。

しかしながら「集まり合えば永遠の命を受け継ぐ」とか「奉仕時間を記録しなさい。そうすれば神の王国を受け継ぐ」と言った聖句は1つもありません。

むしろ「貧しい人に与えなさい。そうすれば永遠の命を受け継ぐ」とか「分け与えなさい。そうすれば裁きの時に有利になる」と言った聖句が非常に多く目立ちます。

つまりエホバの証人は、さほど大切ではない1を100へ、本当は大切な100を1(あるいはゼロ)へとねじ曲げています。

この点は上記のリストでも確認できると思います。

まとめ

  • 人として「清く、正しく、美しく」あること
  • 困っている人や社会的に恵まれない人たちの為に行動すること

これらこそ、聖書の神が本当に望んでいることのようです。

 

それにしても、(普通の人であれば)これらの励ましを否定する人などいないのではないでしょうか。

むしろ聖書に関係なく、上記のような「善い人間」になることは全ての人にとっての理想、人としての目標ではないでしょうか。

だからこそイエスは「わたしの荷は軽い」つまり「キリスト教は別に難しい事を求めているわけではない」と言っているわけです。

 

従順でない子供はムチ、誕生日を祝わない、乾杯をしない、集会は休んではいけない、奉仕時間を毎月報告すべき・・。

 

聖書の教えは素晴らしい一方で、エホバの証人の教えは  ですね。

という事で、存在しているようで実は信者たちの妄想でしかないJWのことは放っておいて、素晴らしい人間になる為に日々前進して参りましょう!w

– 聖書入門 – そもそも「聖書」って何が書かれているの?

この記事では、世界中で歴史的かつ文学的にも高く評されている「聖書」について、その内容や主旨を(聖書の初心者に向けて)簡潔にまとめています。

 

日本に存在する最古の歴史書である「日本書紀」が紀元 720年(養老4年)に完成したことを考えると、「聖書」の成立は紀元 400年頃であり、両者との間にはなんと1,000年以上もの差があります。

つまり、「聖書」は「日本」という国家よりも遥かに古いわけです。その「聖書」の中に詳しく記録されている内容、それは「人類に対する神の計画」です。

聖書が記録している「神の計画」、それがあまりにも具体的かつ詳細であるゆえに、聖書は古代からこれを調べる多くの読者を驚かせて来ました。

 

この文章では、聖書の中で詳しく解説されている「神の計画」を簡単に要約しております。聖書研究の「入門」としてご活用下さい。

人類と和解して、新しい地球を造る

人類と和解して、新しい地球を造る。これが聖書に書かれている「神の計画」の主なテーマです。

 

聖書によると、私たち人類の始祖である最初の人間アダムは神の権利を侵害しました。それは当時の法律に違反する犯罪であり、加えて、その犯行には(アダムに犯行を促した)悪魔サタンによる神の支配権に対する告訴が伴っていました。

こうして、私たちの始祖アダム(とその子孫たち)は、神と悪魔とそれぞれの支持者たちとが複雑に絡み合う宇宙規模の法廷闘争に巻き込まれて行くわけです。

これが、聖書が解説するところの「私たちが住む世界」の説明です。

 

さて、聖書冒頭の書である『創世記』によると、2つの訴訟(人類からの権利侵害と悪魔からの告発)を抱えることになった神は早速、それら訴訟を解決するために以下のように動き出すことになります。

  1. 人類からの権利侵害に対しては、別途、調停委員会を設立しその委員会を通して人類と和解する
  2. 悪魔からの告発に対しては、一旦、人類に対する支配権を放棄し人類と和解後に改めて地球を造り直す

1に関しては、人類と和解するために設立されたのが「古代イスラエル国(現イスラエル国の前身)」です。

神は自分の長子を「人間」として人類側へ送り、彼による賠償支払いをもって人類側からの賠償補てんとするという法的手続きを採用しています。これにより、神と人類との和解が可能となりました。

ちなみに、古代イスラエル国は紀元70年にローマ帝国によって完全に滅ぼされるまで 1,500年以上もの間、地上に存在する唯一の神の代表団として人類に対する布告を行って来ました。

この地上の代表団が遥か古代から現代に至るまで守り続けてきた神からの布告文書、それが「聖書(旧約聖書)」です。

 

2に関してですが、今の世界は「悪魔が支配権を握っている」というのが聖書が説明するところの世界の現状です。そして、聖書によると将来、神は地球と人類を新しく作り直すことを計画しています。

実は、聖書には読者すべてに向けて「新しい人類」への仲間入りをして欲しいとの招待が含まれており、その手順や条件についても体系的に詳しく説明されています。

もちろん、あなたもその招待を受けていることになります。

 

以上をもって、聖書研究の「入門」と致します。是非、聖書に書かれていることをご自身で調査し、その詳しい内容をご自身でお確かめ下さい。

第4章:エホバの証人を越えて

本章が、最後の章です。

楽しい聖書考察の旅は本章で終着駅です。本章に踏み込む前に、ざっと今までの章で考察したことを復習しておきましょう。

第1章:聖書の基本

  • 聖書はもともとユダヤ教の聖典
  • 聖書はもともと3部構成(トーラー、ネビイーム、ケトゥビーム)
  • イエスや弟子たちもこの区分をよく利用していた
  • イエスや弟子たちはもともとユダヤ教徒
  • 「聖書」とは基本的にヘブライ語聖書
  • ギリシャ語聖書とは「手紙の寄せ集め」

第2章:聖書の核心

  • 神は現在、人類に対する支配権を持っていない
  • 人類に対する支配権を持っているのは悪魔
  • ゆえに神は人類の営みに一切干渉していない、できない
  • 人類と和解し支配権を取り戻すために、神は調停委員会を提案
  • 旧約では調停委員会メンバーの主要な資格はアブラハムの子孫
  • 古代イスラエルは甚だしい契約違反を繰り返したのでクビになる
  • 新約では契約が修正。資格を満たす人々は誰でも委員会メンバーに
  • 「契約の修正」がイエス・キリストと弟子たちの宣教の主なテーマ
  • 現在は世界中から天の調停委員会のメンバーを募集している段階
  • 委員会メンバーが満員になったら人類の裁判「主の審判」が始まる
  • 主の審判が始まると、キリストは目に見える形で地上に降りてくる
  • 主の審判では、今まで地球上に存在した人間すべてが裁かれる
  • エホバの証人は上記の聖書の核心を何1つ分かっていない

第3章:エホバの証人の弱点

  • みんな聖書全体を把握していない
  • 聖書全体の把握よりも食事招待に興味がある
  • 隅っこ全体現象も原因
  • つまみ食い全体現象も原因
  • 聖書バラバラ大好き現象も原因
  • つまみ食いしやすい聖書も原因

 

さて、本章「エホバの証人を越えて」では、エホバの証人の組織を越えた先に広がっている広大な世界について考えようと思います。

エホバの証人の組織を越えることは単なる始まりに過ぎないのであり、その先には広大な自由と責任の世界が広がっていると言えるでしょう。

 

「自由」に関しては、エホバの証人の人間的な慣習からの自由が挙げられるでしょう。

集会や大会に関しては「偽りを教える」ことをしない限り聖書を愛する兄弟姉妹たちと交わり続けるのも一つの選択肢だと思いますし、その一方で、わざわざ会社をクビになってまで集会や大会に出席する必要はないと思います。

父の日や母の日、誕生日やクリスマスや乾杯といった行事に関してもやりたい人はやれば良いでしょうし、そのルーツや怪しげな雰囲気が気になる人はやらなければ良いと思います。

これらのことは後述する「本来のクリスチャンの業」からすればただの外縁に過ぎないように思われます。

 

輸血に関しても同じだと思います。

他人の血を入れることに生理的な抵抗を感じる人や「血を避けなさい」という聖句を踏まえて聖書的に無難な選択をしたい人はそうすれば良いと思います。

しかしながら、「やはり命には変えられないから」という理由でそれを受け入れる決定をするとすれば、その決定を下した人を非難することは誰にもできないと思います。

実際に神も、逃亡中のダビデと兵士たちが幕屋の中の聖所にあった「極めて神聖な」パンを止むを得ず食べた時には、彼らを咎めることはされませんでした(サムエル一 21:1~6)。

それは神にとってはやはり「命が一番大切」だからで、それを拒否することによって命を危険にさらすよりは、それを受け入れることによって生き続けてほしいからであったと思います。

しかし、輸血に関する決定はとても大きな決定でしょうし、この点に関しては私が踏み込むべき領域ではないでしょう。

輸血に関しては必ず各人の自己責任のもとに慎重に決定してほしいと思います。

しかしやはり、輸血をするしないというテーマでさえもこの後に取り上げる「本来のクリスチャンの業」からすれば外縁のことのように思えます。

 

さて、エホバの証人の組織を越えた先に広がっている広大な責任の世界についてはどうでしょうか。その先に広がっている責任の世界とはいったいどんな世界なのでしょうか。

結論から言ってしまえばその「責任」とは、天の調停委員会、つまり「祭司の王国」の招待に応じるという責任のことです。

加えて、将来予定されているキリストの裁判に備えるという責任のことでもあります。

  1. 天の調停委員会の招待に応じる
  2. 将来のキリストの裁判に備える

この二重の責任こそが、神を純粋に愛し聖書を純粋に愛しているクリスチャンなら誰もが真摯に取り組むべき責任である、と言えるでしょう。

 

第2章で確認した通り、古代イスラエルの愚かな失敗のために「祭司の王国」のメンバーはいまだ集まっておりません。

パウロが「神の休みに入るという約束は残されている」とヘブライ人に対して発言した1世紀と同じように、現在においてもまだ「神の休みに入るという約束は残されて」います。

ゆえに、現代を生きるクリスチャンたちにも1世紀のクリスチャンたちと同じように「その休みに入るために力を尽くす」必要性が残されているわけです(ヘブライ 4章)。

「祭司の王国」こそが、古代イスラエルの時代から現代に至るまで一貫して神から人類に差し伸べられている和解の取り決めであり、問題だらけの人類にとっての唯一の希望の音信です。

そして「祭司の王国」への招待こそが、キリストの復活を信じキリストを自分の主人だと認識している世界中のクリスチャンたち全てに、そして平等に差し伸べられている招待なのです。

もしあなたが、少しでも聖書に対して真摯に取り組もうと思っているとすれば、この招待は間違いなくあなたにも差し伸べられています。

 

いかがでしょうか。

もはや、「聖書」という観点から見てしまえば「エホバの証人」という枠組みなど取るに足らない異物、今日ここにあって明日かまどに投げ込まれる雑草だと言えるでしょう。

『ものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人)』は聖書の神エホバとは一切何の関係もありません

彼らが「神から任命されている」とか「排斥はエホバのご意志だ」などと言ったとしても、それは全て嘘です。

神が口を開かないことに付け込んで、やりたい放題やっているだけ、神の名前を悪用しているだけなのです。

 

さて、神は不公平な方ではないので「祭司の王国」の成員になるという招待を昔は古代イスラエルに対して、しかし現代においては世界中のクリスチャンたちに対して広く開放しておられます。

神と人類とが和解するためにはどうしても「祭司の王国」の完成が必要があり、そのためには一刻も早く「仲間の兄弟たちの数が満ちる」必要があるのです。

このようなわけで、「祭司の王国」への招待を真摯に受け入れる世界中のクリスチャンたちにとって、今、真剣に取り組むべきことはキリストの裁判に備えることだと言えるでしょう。

聖書の世界観を前提とすれば、キリストはご自身の白い馬を駆って地上に到来することになっています。キリスト曰く「それが遅れることはない」とのことです。

聖書の世界観を前提とすれば、私たちがキリストの臨在を目撃する瞬間は近いでしょう。

補足1
ちなみに死後なら確実です。すべての人間は裁判を受けるために強制的に復活させられることになっています。

補足2
確率論と期待値の観点から考えればキリスト教的な生き方を実践することはとても合理的な選択です。なぜならキリスト教の荷は軽く、それに対する対価は永遠の命だからです。私はパスカルの賭けには賛成です。

 

さて、将来のキリストの裁判に真剣に取り組みたいと考える親愛なる読者のために、ヘブライ語聖書とギリシャ語聖書の中の裁判の文脈に伴って記述されている「救いのための要求事項」を、ここに列挙しておきます。

以下に挙げるものは私がヘブライ語聖書とギリシャ語聖書の中で発見できたものに限られておりますので、読者はご自身でその全てを探し出し、将来のキリストの裁判に備えて下さい

最後の審判

裁判における救いのための要求事項(参考)

また、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたの傍にあって財政的に弱くなる場合、あなたはこれを支えなければならない。
レビ 25:35

立場の低い者に恵みを示している人はエホバに貸しているのであり、その扱いに対して神はこれに報いてくださる。
箴言 19:17

地の人よ、何が善いことかを神はあなたにお告げになった。そして、エホバがあなたに求めておられることは、ただ公正を行い、親切を愛し、慎みをもってあなたの神と共に歩むことではないか。
ミカ 6:8

あなた方は神と富とに奴隷として仕えることはできません。
マタイ 6:24

あなた方に言いますが、人が語る全ての無益なことば、それについて人は裁きの日に言い開きをすることになります。あなたは自分の言葉によって義と宣せられ、また自分の言葉によって有罪とされるのです。
マタイ 12:36,37

人の子は、自分の使いたちを伴って父の栄光のうちに到来することに定まっており、その時、各々その振る舞いに応じて返報するのです。
マタイ 16:27

「師よ、永遠の命を得るために、わたしはどんな善いことを行わなければならないでしょうか」。イエスは彼に言われた、「・・命に入りたいと思うならば、おきてを絶えず守り行いなさい」。彼は言った、「どのおきてですか」。イエスは言われた、「ほかでもない、あなたは殺人をしてはならない、姦淫を犯してはならない、盗んではならない、偽りの証しをしてはならない、あなたの父と母を敬いなさい、そして、隣人を自分自身のように愛さねばならない」。その青年は言った、「わたしはそれらをみな守ってきました。まだ何が足りないのですか」。イエスは言われた、「完全でありたいと思うなら、行って、自分の持ち物を売り、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、天に宝を持つようになるでしょう。
マタイ 19:16~21(マルコ 10:17~21、ルカ 18:18~22)

書士たちに気を付けなさい。彼らは長い衣を着て歩き回ることを望み、市の立つ広場でのあいさつと、食堂の正面の座席、そして晩さんでは特に目立つ場所を望みます。彼らは、やもめたちの家を食い荒らし、見せかけのために長い祈りをする者たちです。こうした者たちはより重い裁きを受けるでしょう。
マルコ 12:38~40

あなた方の敵を愛しつづけ、善を行いつづけ、何かを返してもらうことなど期待せずに利息なしで貸すことを続けて行きなさい。そうすれば、あなた方の報いは大きく、あなた方は至高者の子となるのです。・・あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も常に憐れみ深くなりなさい。また、裁くのをやめなさい。そうすれば、あなた方が裁かれることは決してないでしょう。・・いつも放免しなさい。そうすれば、あなた方も放免されるでしょう。
ルカ 6:35~37

自分の持ち物を売って、憐れみの施しをしなさい。自分のために、すり切れることのない財布、決して尽きることのない宝を天に作りなさい。
ルカ 12:33

あなたがごちそうを設けるときには、貧しい人、体の不自由な人、足なえの人、盲目の人などを招きなさい。そうすればあなたは幸いです。彼らはあなたに報いるものが何もないからです。あなたは義人の復活の際に報いを受けるのです。
ルカ 14:13,14

きわめて真実にあなた方に言いますが、だれでもわたしの言葉を守り行うなら、その人は決して死を見ることがありません。
ヨハネ 8:51

わたしのおきてを持ってそれを守り行う人、その人はわたしを愛する人です。さらに、わたしを愛する人はわたしの父に愛されます。そしてわたしはその人を愛して、自分をはっきり示します。
ヨハネ 14:21

つまり、イエスは主であるということを公に宣言し、神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら、あなたは救われるのです。
ローマ 10:9

それなのに、あなたはなぜ自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ自分の兄弟を見下げたりするのですか。わたしたちはみな、神の裁きの座の前に立つことになるのです。
ローマ 14:10

あなた方は、不義の者が神の王国を受け継がないことを知らないとでもいうのですか。惑わされてはなりません。淫行の者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、不自然な目的のために囲われた男、男どうしで寝る者、盗む者、貪欲な者、大酒飲み、ののしる者、ゆすり取る者はいずれも神の王国を受け継がないのです。
コリント一 6:9,10

律法全体は一つのことば、すなわち「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」の中に全うされているからです。それなのに、もしあなた方がかみ合ったり食い合ったりすることを続けているのであれば、互いによって滅し尽くされてしまうことのないよう気をつけなさい。
ガラテア 5:14,15

さて、肉の業は明らかです。それは、淫行、汚れ、みだらな行い、偶像礼拝、心霊術の行い、敵意、闘争、ねたみ、激発的な怒り、口論、分裂、分派、そねみ、酔酒、浮かれ騒ぎ、およびこれに類する事柄です。こうした事柄についてわたしはあなた方にあらかじめ警告しましたが、なおまた警告しておきます。そのような事柄を習わしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません。
ガラテア 5:19~21

聖なる民にふさわしく、あなた方の間では、淫行やあらゆる汚れまた貪欲が口に上ることさえあってはなりません。また、恥ずべき行い、愚かな話、卑わいな冗談など、ふさわしくない事柄があってもなりません。むしろ感謝をささげなさい。あなた方はこのことを知っており、自分でも認めているのです。すなわち、淫行の者、汚れた者、貪欲な者は、これらはつまり偶像礼拝者ですが、キリストの、そして神の王国に何の相続財産もありません。
エフェソス 5:3~5

そして、あなた方兄弟たちの霊と魂と体があらゆる点で健全に保たれ、わたしたちの主イエス・キリストの臨在の際にとがめのないものでありますように。
テサロニケ一 5:23

一方患難を忍ぶあなた方には、主イエスがその強力なみ使いたちを伴い、燃える火のうちに天から表わし示される時、わたしたちと共に安らぎをもって報いることこそ、神にとって義にかなったことであると言えるからです。その際イエスは、神を知らない者と、わたしたちの主イエスについての良いたよりに従わない者に報復するのです。
テサロニケ二 1:7,8

わたしたちの主イエス・キリストの顕現の時まで、汚点のない、またとがめられるところのない仕方でおきてを守り行いなさい。
テモテ一 6:14

今の事物の体制で富んでいる人たちに命じなさい。高慢になることなく、また、不確かな富にではなく、わたしたちの楽しみのためにすべてのものを豊かに与えてくださる神に希望を託すように。そして、善を行い、立派な業に富み、惜しみなく施し、進んで分け合い、自分のために将来に対するりっぱな土台を安全に蓄え、こうして真の命をしっかりとらえるようにと。
テモテ一 6:17~19

わたしたちの神また父から見て清く、汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち、孤児ややもめをその患難の時に世話すること、また自分を世から汚点のない状態に保つことです。
ヤコブ 1:27

憐れみを実践しない人は、憐れみを示されることなく自分の裁きを受けるのです。憐れみは裁きに打ち勝って歓喜します。
ヤコブ 2:13

最後に、あなたがたはみな同じ思いを持ち、思いやりを示し合い、兄弟の愛情を抱き、優しい同情心に富み、謙遜な思いを抱きなさい。危害に危害、ののしりにののしりを返すことなく、かえって祝福を与えなさい。あなた方はそうした道に召されたからです。それはあなた方が祝福を受け継ぐためなのです。
ペテロ一 3:8,9

それゆえ、愛する者たちよ、あなた方はこれらのものを待ち望んでいるのですから、最終的に汚点もきずもない、安らかな者として見いだされるよう力を尽くして励みなさい。
ペテロ二 3:14

しかし、だれであろうと、生活を支えるこの世の資力があるのに、自分の兄弟が窮乏しているのを見ながら、その兄弟に向かって優しい同情の扉を閉じるなら、その人にはどうして神の愛がとどまっているでしょうか。子供らよ、言葉や舌によらず、行いと真実とをもって愛そうではありませんか。
ヨハネ一 3:17,18

実際、これが神のおきてです。すなわち、わたしたちがそのみ子イエス・キリストの名に信仰を持ち、彼がわたしたちにおきてを与えたとおり、互いに愛し合うことです。・・そのおきてを守り行うこと、これがすなわち神への愛だからです。
ヨハネ一 3:23、5:3

しかし、臆病な者、信仰のない者、不遜で嫌悪すべき者、殺人をする者、淫行の者、心霊術を行う者、偶像を礼拝する者、またすべての偽り者については、その分は火と硫黄で燃える湖の中にあるであろう。これは第二の死を表している。
啓示 21:8

私がお伝えしたいことは以上です。

とても短い時間でしたね。

しかし、ここまで読み進めて来られたあなたは間違いなく世界中の800万以上のエホバの証人たちの誰よりも、聖書に詳しい状態になっていると思います。

おめでとうございますw

 

さて最後に、私なりに結論をまとめるとすれば次のようになるでしょう。

自分の時間、能力、財産をもっぱら貧しい人たちを助けるため、社会的に恵まれない人たちを援助するために使うこと(キリストから褒められたザアカイは自分の収入の半分を慈善活動に回していました)。そのようにしてキリストの臨在、あるいは自分の死を待ち続けること。

聖書の世界観から言えば、これが人のなし得る「最善の生き方」です。

すべてのことが聞かれたいま、事の結論はこうである。まことの神を恐れ、そのおきてを守れ。それが人の務めのすべてだからである。
まことの神はあらゆる業をすべての隠された事柄に関連して、それが善いか悪いかを裁かれるからである。
伝道 12:13,14

「しかり、わたしは速やかに来る」。アーメン! 主イエスよ、来てください。主イエス・キリストの過分のご親切が聖なる者たちと共にありますように。
啓示 22:20,21

 

 

執筆:2014/06/10
改訂:2016/05/12
改訂:2017/02/20
改訂:2018/07/20
改訂:2019/06/25
改訂:2022/11/18

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